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《櫻井ジャーナル》

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2017.01.30
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メリカはヨーロッパだけでなく、日本とも軍事同盟を結んでいる。その基盤には日米安全保障条約があるわけだが、この条約は1951年9月、アメリカのサンフランシスコにあるプレシディオ(第6兵団が基地として使っていた)で署名されて成立した。

 その1週間前、同じ場所でオーストラリア(A)、ニュージーランド(NZ)、アメリカ(US)の3カ国がANZUS条約に調印している。その2年前にアメリカはNATO(北大西洋条約機構)を創設したが、前回指摘したように、その目的はソ連/ロシアを制圧し、ヨーロッパで米英巨大資本のカネ儲けに邪魔な人や団体(右とか左は関係ない)を殲滅することにあった。日米安保やANZUSの場合、ロシアだけでなく中国が強く意識されているはずだ。

 安保条約が調印されたその日、対日平和条約も結ばれている。サンフランシスコのオペラハウスで開かれた講和会議には日本を含む52カ国が出席している。中国の代表は招請されず、インド、ビルマ(現在のミャンマー)、ユーゴスラビアの3カ国は出席せず、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは調印式に欠席した。

 対日平和条約の調印式には首相兼外相の吉田茂をはじめ蔵相の池田勇人、衆議院議員の苫米地義三、星島二郎、参議院議員の徳川宗敬、そして日銀総裁の一万田尚登が出席したが、安保条約の署名式には吉田ひとりが出席している。

 全権団を率いていたのは吉田。彼は当初、アメリカ軍への基地提供に否定的な態度を示し、サンフランシスコ平和会議への出席を避けようとしていたのだが、7月19日に昭和天皇へ「拝謁」した後、全権団を率いることに同意したという。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)当時の状況から考えると、安保条約の締結は天皇の意思で決まり、吉田は身代わりだった可能性が高い。天皇とつながっていたアメリカの支配層が操り人形として作り上げた人物が岸信介だ。

 アメリカと緊密な関係にあったイギリスではドイツが降伏した直後、1945年5月にウィンストン・チャーチル英首相がJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を奇襲攻撃するための作戦を立案するように命令している。これは本ブログで何度も指摘してきた。

 そして作成された「アンシンカブル作戦」では、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は参謀本部に拒否されて実行されず、チャーチルは7月26日に退陣するのだが、日本が降伏して第2次世界大戦が終わった翌年、1946年の3月に彼はアメリカのミズーリ州で「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至まで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説して「冷戦」の開幕を宣言した。

 1947年にチャーチルはスタイルス・ブリッジス米上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたと報道されている。こうしたチャーチルの動きと連動するかのように、アメリカ軍ではソ連を先制核攻撃するプランが練られ始めている。

 この1947年3月にトルーマン大統領は世界的な規模でコミュニストを封じ込める政策、いわゆるトルーマン・ドクトリンを打ち出し、ジョージ・ケナンがXという署名でソ連封じ込め政策に関する論文を発表している。統合参謀本部の研究報告にソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれたのはその2年後だ。

 1953年になると沖縄で布令109号「土地収用令」が公布/施行され、アメリカ軍は暴力的な土地接収を進める。1955年には本島面積の約13%が軍用地になったという。沖縄の軍事基地化はアメリカの世界戦略と結びついている。

 その間、1954年にアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)はソ連を攻撃するための作戦を作成した。600から750発の核爆弾をソ連に投下、約6000万人を殺すという内容で、この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うという「ドロップショット作戦」が作成されたのは1957年初頭だ。

 1955年から57年にかけて興味深い人物が琉球民政長官を務めている。キューバ軍を装ってアメリカに対する「テロ攻撃」を展開、それを口実にしてキューバへアメリカ軍を侵攻させようというノースウッズ作戦の中心メンバーになるライマン・レムニッツァーがその人だ。レムニッツァーはは大戦の終盤、アレン・ダレスたちとナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を大統領に無断で実施している。

 ドワイト・アイゼンハワー政権(1953年から61年)でレムニッツァーは統合参謀本部議長に就任するが、次のケネディ大統領とは衝突、議長の再任が拒否されている。衝突の主な原因はソ連に対する先制核攻撃をめぐるものだった。

 沖縄は勿論、こうした流れに日本全体が巻き込まれていた。NATOの秘密部隊を編成したOPC(1951年にCIAの内部に入り込んだ)は1949年に拠点を上海から日本(厚木基地が中心)へ移動させている。この年の1月に中国で人民解放軍(コミュニスト)が北京に無血入城、5月には上海を支配下におく事態になったからだ。

 その年の夏、日本では国鉄を舞台とする「怪事件」が引き起こされる。7月に下山事件と三鷹事件、8月には松川事件だ。この3事件で国鉄の労働組合だけでなく、日本の労働運動、そして「左翼」と見なされている人びとは大きなダメージを受けた。

 OPCが拠点を上海から日本へ移動させた3年後、日米安保が成立した翌年の6月に大分県直入郡菅生村(現竹田市菅生)で駐在所が爆破された。近くにいた共産党員2人が逮捕され、3人が別件逮捕されるのだが、後に当局が仕組んだ「偽旗作戦」だということが判明する。下山事件、三鷹事件、松川事件と同じ背景があるということだ。

 菅生村での事件でカギを握っているのは、共産党に潜入していた戸高公徳(市木春秋という偽名を使っていた)。事件後に姿を消したが、共同通信の特捜班が東京に潜んでいた戸高を見つけ、その証言から彼が国家地方警察大分県本部警備課の警察官だということが判明、ダイナマイトを入手し、駐在所に運んだのも彼だと言うことがわかった。

 本来なら戸高は厳罰に処せられ、その背景も調査されなければならないが、戸高の刑は免除され、有罪判決から3カ月後に警察庁は戸高を巡査部長から警部補に昇任させ、そのうえで復職させている。最終的に彼は警視長まで出世、警察大学の術科教養部長にもなっている。退職後も天下りで厚遇された。この「テロ」には大きな背景があることを示唆している。

 この偽旗作戦は1952年7月4日に可決成立した破壊活動防止法との関係で語られることもあるが、国鉄の3事件、菅生事件、破壊活動防止法の成立、そして沖縄の軍事基地化は同じ大きな目的のために仕組まれた出来事にすぎないだろう。破壊活動防止法を持ち出すのは一種のダメージコントロールだ。ちなみに、事件当時、菅生村の周辺地域では米軍射爆場への接収計画などに反対する運動が高まっていたようだ。

 OPCが東アジアにおける拠点を日本へ移動させた理由は中国のコミュニストによる制圧が不可避になったから。その後、日本はそうした状況になっていないわけで、破壊工作の拠点は残っているどころか増強されているだろう。対中国作戦だけでなく、東南アジアでのクーデターを準備する場所としても日本/沖縄は使われてきた。





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最終更新日  2017.01.30 01:51:05
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