《櫻井ジャーナル》

2017/09/01(金)01:45

34年前の9月1日、米国、イスラエル、サウジがソ連に戦争仕掛ける中、KAL007がソ連領空を侵犯

1983年8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便が航路を大幅に逸脱、NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が定める緩衝空域と飛行禁止空域を通過、カムチャツカ半島を横切り、サハリン上空で撃墜されたとされている。その際、007便はソ連の重要な軍事基地の上を飛行した。この後、1983年から84年にかけてアメリカとソ連は全面核戦争の一歩手前まで進んでいる。 NORADのアラスカ航空指揮規則によると、飛行禁止空域に迷い込みそうな航空機を発見した場合はすぐに接触を試み、FAA(連邦航空局)へ連絡しなければならないと定められているのだが、アメリカ軍は撃墜も予想される飛行禁止空域へ向かう民間機に対して何もアクションを起こしていない。アメリカ軍のスタッフが信じがたいほど怠慢だったのか、NORAD側を誤認させる機材が搭載されていたのか、事前に飛行許可を受けていたということになる。 この撃墜を利用し、アメリカをはじめ西側の政府やメディアはソ連を激しく非難するのだが、その時点でアメリカ支配層はソ連との戦争を始めていた。パキスタンのバナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによるとアメリカは73年からアフガニスタンを不安定化させるため、反体制派へ資金を援助している(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)のだが、ジミー・カーター政権で国家安全保障担当補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーは1979年4月からCIAはイスラム武装勢力への支援プログラムを開始、その年の12月にはソ連軍をアフガニスタンへ誘い込むことに成功する。  このソ連軍と戦うためにサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心に戦闘集団が編成され、その戦闘員にCIAが武器/兵器を供給、軍事訓練も行っている。ロビン・クック元英外相も指摘したように、こうした戦闘員、いわゆるムジャヒディンのコンピュータ・ファイルがアル・カイダ。ちなみにアル・カイダとは「ベース」を意味し、データベースの訳としても使われる。 戦闘員を雇うカネを負担したのはサウジアラビアで、責任者は同国の総合情報庁長官を務めていたタルキ・アル・ファイサル。その下で戦闘員を集めていた人物がオサマ・ビン・ラディンだ。アル・カイダは戦闘組織ではなく、オサマ・ビン・ラディンが戦闘を指揮しているわけではない。 アフガニスタンでの秘密工作はアメリカやサウジアラビアのほか、パキスタン、王政時代のイラン、イスラエルが参加しているが、そのうちアメリカとイスラエルの情報機関関係者は1979年7月にエルサレムで「国際テロリズム」に関する会議を開いている。 会議を主催したのはジョナサン研究所というイスラエルのシンクタンク。情報機関との関係が深いとされている。その名称は1976年7月、ウガンダのエンテベ空港襲撃の際に死亡したイスラエルの特殊部隊員、ヨナタン・ネタニアフに由来している。後にイスラエルの首相となるベンヤミン・ネタニアフは弟であり、研究所が創設された時に所長を務めたベンシオン・ネタニアフはふたりの父親。このベンシオンはジャボチンスキーの秘書を務めていた人物だ。 この会議にはジョージ・H・W・ブッシュ元CIA長官(後の大統領)、ブッシュ長官時代にソ連の脅威を宣伝していたチームB(またはBチーム)を率いていたネオコンのリチャード・パイプス、あるいはCIA台湾支局長を経て副長官を務め、シンクタンクのCSISの創設に参加したレイ・クラインも含まれていた。クラインは席上、「テロの原因」を抑圧された人々の怒りでなく、ソ連政府の政策、あるいはその陰謀にあると主張する。会議後、アメリカの政府や有力メディアはソ連を国際テロリズムの黒幕だとするキャンペーンを展開した。 1981年5月にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がサンピエトロ広場で銃撃されたが、引き金を引いたモハメト・アリ・アジャはトルコの「灰色の狼」に所属していたが、この結社はNATOの秘密部隊の一部だと言われている。この事件も反ソ連キャンペーンに利用された。ジャーナリストのカール・バーンシュタインによると、その翌年の7月、教皇はロナルド・レーガン大統領とバチカンで会談、ソ連に対する秘密工作について話し合っている。(Carl Bernstein, “The Holy Alliance”, TIME, Feb. 24, 1992)

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