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《櫻井ジャーナル》

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2017.12.03
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アメリカ司法省はロシア系メディアに対して「外国のエージェント」として登録し、その金融に関する情報を開示するように強制しはじめた。それに対抗してロシアでは対抗措置として新たな法律を成立させている。ロシア国内で活動、外国が資金提供する報道機関に対して財務内容と活動の詳細を開示することを要求することになりそうだ。ロシアのメディアと似た状況にあるカタールのアル・ジャジーラ、フランスのフランス24、イギリスのBBC、ドイツのドイチェ・ベレ、あるいは日本のNHKに対してアメリカ司法省はそうした要求をしていない。

ロシア系メディアのメディアが狙われた理由はアメリカの報道統制にとって邪魔な存在だからだろう。アメリカでは情報源が政府、議会、大企業など支配層に偏り、そうした支配層に批判的な意見は採りあげられないに等しい。イスラエルのパレスチナ人弾圧を批判していたユダヤ系の学者が大学から追放されるということもあった。

選挙では民主党と共和党という2大保守政党以外の弱小政党にも発言のチャンスを与え、イラク、リビア、シリアなどでは現地で地道に取材しているジャーナリストの報告も取り上げている。つまり、アメリカの有力メディアを通して伝える「大本営発表」の嘘がロシア系メディアを通して明らかにされてきたのだ。

本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカの支配層は第2次世界大戦の直後から組織的に情報操作を行ってきた。1948年頃に始まった情報操作プロジェクトはモッキンバードと呼ばれ、その中心メンバーは大戦中からアメリカの破壊活動を指揮していたアレン・ダレス、ダレスの側近で極秘の破壊工作機関OPCを指揮していたフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で後にCIA長官に就任するリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムである。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)

この4人のほか、CBSの社長だったウィリアム・ペイリー、TIME/LIFEを発行していたヘンリー・ルース、ニューヨーク・タイムズの発行人だったアーサー・シュルツバーガー、クリスチャン・サイエンス・モニターの編集者だったジョセフ・ハリソン、フォーチュンやLIFEの発行人で、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の様子を撮影したザプルーダー・フィルムを隠すように命じたのC・D・ジャクソンなど多くのメディア関係者の名前が協力していたと言われている。

フィリップ・グラハムは1963年8月、ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、妻のキャサリン・グラハムが新聞社を引き継いだ。キャサリンの友人の中にはフランク・ウィズナーの妻ポリーがいる。このキャサリンから目をかけられたワシントン・ポスト紙の記者ベンジャミン・ブラッドリーが結婚したトニー・ピンチョットの姉、マリー・ピンチョット・メイヤーはCIAの秘密工作部門の幹部だったコード・メイヤーと離婚した後、ケネディ大統領の愛人になったと言われている。マリーは1964年10月、ケネディ大統領暗殺に関する報告書が公表された3週間後、散歩中に射殺された。

ウォーターゲート事件を調査、リチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだのはキャサリン・グラハムが率いるワシントン・ポスト紙だった。事件を担当したのは若手記者だったカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードで、実際の取材はバーンシュタインが行ったという。

そのバーンシュタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

それによると、その時点までの20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上。そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリストで、残りは、出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。現在の情報操作ネットワークはこの当時よりシステム化が進み、その規模も大きくなっているだろう。

2014年2月には​フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だったウド・ウルフコテ​もドイツでCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出している。ウルフコテによると、ジャーナリストとして過ごした25年の間に教わったことは、嘘をつき、裏切り、人びとに真実を知らせないこと。ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収され、最近では人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開、人びとをロシアとの戦争へと導き、引き返すことのできない地点にさしかかっているとしていた。今年(2017年)1月、心臓発作によって56歳で死ぬまで警鐘を鳴らし続けていた。今年5月には英語版が出版されたはずだったが、流通していないようだ。

モッキンバードの中核メンバーだったヘルムズはCIA長官時代、「アカの脅威」に替わる新たな呪文として「国際テロリズム」を考えだした。ズビグネフ・ブレジンスキーがアフガニスタンでサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とする戦闘集団を編成、訓練を始めていた1979年7月、アメリカとイスラエルの情報機関はエルサレムで「国際テロリズム」に関する会議を開いている。イスラエル側からは軍の情報機関で長官を務めた4名を含む多くの軍や情報機関の関係者が参加、アメリカからもジョージ・H・W・ブッシュ元CIA長官(後の大統領)やレイ・クライン元CIA副長官など情報機関の関係者が参加していた。

ロナルド・レーガンが大統領に就任した翌年の1982年、CIAのプロパガンダを担当していたNSC(国家安全保障会議)のスタッフはウォルター・レイモンド。その年の6月にレーガン大統領はイギリス下院の本会議で「プロジェクト・デモクラシー」という用語を使う。このプロジェクトの目的はアメリカの巨大資本にとって都合の悪い国家、体制を崩壊させることにある。いわゆるレジーム・チェンジだ。国内の作戦は「プロジェクト・トゥルース」と呼ばれた。1983年1月にレーガン大統領はNSDD(国家安全保障決定指示)77に署名、プロジェクトの中枢機関としてSPG(特別計画グループ)をNSCに設置、心理戦の中心になる。相手国の人々を偽情報で混乱させ、や文化的な弱点を利用して操ろうとしたのだ。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)

このプロジェクトと並行する形で始められたのがCOG(政府の継続)。その源はドワイト・アイゼンハワー政権で始められたソ連に対する先制核攻撃計画だった。核戦争後に中心的な役割を果たす8名が選ばれたのである。これはジミー・カーター時代の1979年にFEMAと言う形で表面化、1982年にはNSDD55が出され、COGが承認された。1988年に出された大統領令12656でCOGの対象は核戦争から国家安全保障上の緊急事態へ変更され、2001年9月11日の出来事で始動、そのひとつの結果として愛国者法が出されたと言われている。

カリフォルニア大学バークレー校のピーター・デール・スコット教授によると、COGプログラムは二重構造になっていて、ジョージ・H・W・ブッシュ、ドナルド・ラムズフェルド、リチャード・チェイニー、ジェームズ・ウールジーたち上部組織と、ホワイトハウスの役人、将軍たち、CIAの幹部、「引退」した軍人や情報機関員など数百人で編成される下部組織に分けられたという。COGの始動で秘密政府が動き始めたのではないかと疑う人もいる。

西側、特にアメリカの有力メディアは支配層の情報統制機関にすぎない。かつては気骨ある記者が活躍する余地もあったが、今では事実を探すのが困難な状況だ。





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最終更新日  2017.12.03 12:30:14



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