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《櫻井ジャーナル》

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2018.01.03
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イランの反政府行動で死者が出ていると伝えられている。イラン政府はアメリカが介入していると非難、ロシアは内政問題だと静観の構えだ。2018年にアメリカが、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟がイランの体制転覆を狙って何らかの行動に出ることは予想されていたが、その幕開けなのかもしれない。

ところで、アメリカ支配層は遅くとも1991年の段階でイランの体制転覆を狙う動きがあった。イラク、シリア、イランを殲滅するとポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)が口にしたのは1991年のことだ。この話は2007年にウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官が語っている。(​3月​、​10月​)

ウォルフォウィッツが国防次官だったのは1989年5月から93年1月にかけてのことで、当時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ。その頃、イラクとクウェートは石油採掘をめぐって対立し、交渉が進展しないことに業を煮やしたイラクが1990年8月にクウェートへ軍事侵攻、翌年1月にアメリカ軍主導の軍隊がイラクへ攻め込んでいる。いわゆる「湾岸戦争」だ。

ウォルフォウィッツはネオコンの大物として知られているが、このネオコンはロナルド・レーガンが大統領だった1980年代からイラクのサダム・フセインを排除して親イスラエル政権を樹立させ、ヨルダン、イラク、トルコの親イスラエル国帯を形成し、シリアとイランを分断するという戦略を立てていた。

そこで、ネオコンは湾岸戦争の際にフセインを排除(つまり殺害)するつもりだったのだが、ブッシュ・シニア大統領はフセイン体制を倒さずに戦争を止めてしまう。それの怒ったひとりがウォルフォウィッツで、イラク、シリア、イランを殲滅するという発言につながる。

ブッシュ大統領の判断に反発したネオコンだが、湾岸戦争ではその後の戦略を決める光景を彼らは目にした。ソ連軍が介入してこなかったということだ。1985年3月から91年8月までソ連の党中央委員会書記長を務め、90年3月から91年12月までソ連大統領だったミハイル・ゴルバチョフ、その側近だったエドアルド・シェワルナゼ、このふたりは西側に好意的な感情を持つ人物で、そうしたこともソ連が強く出なかった理由のひとつだろう。シェワルナゼは外務大臣を務めていたが、外交の経験はなかった。

1991年12月にはロシア大統領だったボリス・エリツィンが勝手にベロベーシの森で秘密会議を開き、国民に諮ることなくソ連からの離脱を決めて連邦を崩壊させる。エリツィンとその取り巻きはそれから約10年に渡り、西側の富豪たちと手を組んで旧ソ連圏の資産を略奪して私腹を肥やすことになった。

その一方、1992年2月にウォルフォウィッツを中心とするグループは​国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成​する。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。このドクトリンを危険だと考える人はアメリカの支配層内にもいたようで、メディアにリークされて問題になった。そこで書き直されたようだが、その考え方は消えない。このプランに基づいて日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。

ソ連の消滅でネオコンたちはアメリカが唯一の超大国になったと考えた。ソ連が消滅した後のターゲットとして考えたのは中国。そこで東アジア重視を打ち出すが、潜在的なライバルがライバルに成長しないよう、潰していくことも想定している。その潜在的なライバルとは東アジアや旧ソ連圏のほか、西ヨーロッパも含む。ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアの支配も重視している。1991年のウォルフォウィッツ発言はこのプランを先取りしたものだと言える。

イラク、シリア、イランを含む中東の国々を属国化するため、アメリカやイギリスはこれまど幾度となくクーデターや暗殺を実行してきた。そのひとつが1953年夏、イランのムハマド・モサデク政権を倒したクーデター。

当初、イギリスとアメリカの利害は対立していたが、途中から手を組んで秘密工作を進めている。モサデクがイギリスの利権を揺るがすと判断した同国の対外情報機関SIS(通称MI6)はクーデターを考え、アメリカのアレン・ダレスCIA長官に接触する。1953年4月にダレスは100万ドルの資金提供に合意した。(Richard J. Aldrich,"The Hidden Hand," John Murray, 2001)

ダレスCIA長官の兄、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は6月22日、イラン政府の転覆を準備する許可をアレンCIA長官、そしてCIAの中東担当で、破壊工作部門に所属していたカーミット・ルーズベルト(シオドア・ルーズベルトの孫)に出している。この時に作成されたのが「アイアス作戦」だ。ドワイト・アイゼンハワー大統領は7月に最終的なゴーサインを出している。

それに対し、8月16日にモサデクを支持し、国王とアメリカに抗議するデモが始まる。アメリカのロイ・ヘンダーソン駐イラン大使はこのデモに抗議、18日にモサデクは警察や軍隊に命じてデモを止めさせた。19日になるとCIAが手配した反モサデクのデモが始まる。

反政府デモの一部はモサデクを支持する新聞社や政党、政府施設などを襲撃、CIAのエージェントがテヘラン・ラジオを制圧して「モサデグ解任の命令が国王から出され、ファズロラー・ザヒディが新首相に就任した」とする情報を流した。(Brendan O'Malley & Ian Craig, "The Cyprus Conspiracy," 1999)結局、モサデクの支持派と反対派の衝突で約300名が死亡、一部では戦車での戦闘も行われている。国王が帰国したのは混乱が治まった後だ。(Richard J. Aldrich,"The Hidden Hand," John Murray, 2001)

クーデターに成功したアメリカは支配システムを築く一環として秘密警察の導入を決める。そして生まれたのがSAVAK(国家情報治安機構)。当然、SAVAK創設にはCIAが深く関係しているが、同じ程度重要な役割を果たしたのがイスラエルの情報機関モサドである。モサドとSAVAKとの関係は、CIAが1972年にまとめた報告書が指摘している。ズビグネフ・ブレジンスキーが1970年代終盤にアフガニスタンで始めた秘密工作ではCIAの下、モサド、SAVAKがサウジアラビアやパキスタンの情報機関と同じように参加している。

クーデターでアメリカの傀儡王制が復活したのだが、1978年の初めにイランを極秘訪問したイスラエルのモシェ・ダヤン国防相(当時)は同国で活動していた情報機関員から国王の様子が奇妙だとする報告を受け取っている。精神状態が不安定で、会談中に取り乱したり泣き出したりすることがあるというのだ。

イラン国王の寿命はあと数年ではないかとする警告をテヘラン駐在の非公式大使ウリ・ルブラニがエルサレムへ伝えたのはダヤンがイランを訪問した数カ月後のこと。(Gary Sick, "October Surprise," I.B. Tauris, 1991)イラン王制は1979年1月に崩壊、2月1日にはアヤトラ・ホメイニがフランスから帰国した。

この当時、アメリカやイスラエルが最も恐れたのはイランで社会主義革命が引き起こされること。それを防ぐため、ホメイニを中心とするイスラム革命を容認したとする見方もある。






最終更新日  2018.01.03 04:49:36



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