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《櫻井ジャーナル》

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2018.01.30
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アメリカのジャーナリスト、​ロバート・パリーが1月27日、脳卒中で死亡した​。享年68歳。非常に優秀なうえ気骨のある人物で、亡くなるまで権力者に対する批判的な姿勢を崩さなかった。強者にさからえば、その代償として社会的な地位や裕福な生活は諦めなければならない。強者におもねれば地位も裕福な生活も手に入れられるかもしれないが、魂を引き渡すことになる。パリーは前者の道を選んだひとりだ。

個人的な話で恐縮だが、私がパリーを知ったのは1985年のことである。ロッキード事件が明るみに出てからアメリカの情報機関について調べていたのだが、その過程でイラン・コントラ事件に興味を持ち、コントラがコカインの密輸で資金を稼いでいるという話を知った。その話を始めて明らかにしたのがAPの記者だったパリーと同僚のブライアン・バーガーだ。

コントラとはニカラグアの革命政権を倒すためにCIAが編成したゲリラ組織で、独裁体制下で国家警備隊の元メンバーが中心。そのコントラの教官だったジャック・テレルが彼らの情報源だった。「人を豚のように殺す」コントラに愛想を尽かし、告発することにしたのだ。

アメリカ議会ではニカラグア政府の転覆や不安定化を目的とした資金援助を禁止する「ボランド修正条項」が1982年12月に可決され、CIAは動きづらくなった。そこで穴を埋めるためにCMAという準軍事団体が利用されたのだが、テレルはそこに所属していた。

1984年にジョージ・H・W・ブッシュ副大統領を中心とするグループがニカラグアのサンディニスタ政権がコカイン取引を行っているとする宣伝を開始、DEA(麻薬捜査局)のおとり捜査に協力していたバリー・シールを使ってサンディニスタを罠にかけようとするが失敗、仕方なく話をでっち上げている。パリーたちの記事はこうしたプロパガンダを揺るがすものだった。

パリーとバーガーのスクープをAP本社の編集幹部は封印しようとするが、スペイン語版が「間違い」で配信されてしまい、人々の知るところになった。1985年12月のことだ。1987年にパリーはAPからニューズウィークへ移り、90年まで在籍、コンソーシャムニューズを始めたのは1995年のことである。

アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスは19世紀に麻薬取引を戦略に使っている。清(中国)にアヘンを密輸、それを取り締まろうとする清と戦争になったことは有名。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争だ。

この戦争で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。この会社は1859年にふたりの人物を日本へ派遣した。ひとりは長崎に来たトーマス・グラバー、もうひとりは横浜にオフィスを開いたウィリアム・ケズウィックだ。その後、グラバーは日本に滞在、内戦が続くことを見越して武器を大量に購入するが、予想外に早く終わったことから破産、三菱に助けられている。

ケズウィックは1862年に香港へ戻り、86年にはロンドンで会社の幹部になっている。彼の父親もジャーディン・マセソン商会の人間で、母方の祖母は同商会の共同創立者であるウィリアム・ジャーディンの姉にあたり、ケズウィック家は香港上海銀行と深くつながる。この銀行は麻薬取引の資金を扱っていたが、そうしたことからウィリアム・ケズウィックは青幇の杜月笙と親しくしていた。その縁で蒋介石とも関係がある。

蒋介石と緊密な関係にあったクレア・シェンノートは1941年8月から第1米国義勇兵グループ(AVG/フライング・タイガース)を訓練、このグループは日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した後、41年12月20日から戦闘に参加している。

第2次世界大戦後の1946年にシェンノートは中国で空輸会社のCATを設立、50年8月にCIAはこの会社の資産のうち40パーセントを買い取る。CATの設立に協力したCIAエージェントのポール・ヘリウェルは1948年にシー・サプライを創設、51年には沖縄からバンコックまで物資を運ぶPAPER作戦を始めた。その輸送を担当したのがCATだ。この作戦の背後には破壊工作(テロ)機関のOPCが存在、この機関が中心になり、1952年にCIAの計画局が作られた。

ヘリウェルとシェンノートには後ろ盾になるふたりの弁護士がいた。そのふたりが法律顧問を務めていたC・V・スターという保険会社は戦時情報機関のOSSと緊密な関係にあったと言われている。同社は後のAIGグループだ。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)

このCIA人脈はベトナム戦争の際、東南アジアの山岳地帯、いわゆる黄金の三角地帯でケシを栽培、ヘロインを製造して売りさばいていた。1970年代の終盤にアフガニスタンで秘密工作が始まるとケシの生産地はパキスタンからアフガニスタンにかけての山岳地帯へ移動、そこは今でも非合法麻薬の主要産地である。

ベトナム戦争時代、CIAの手先としてヘロインを売りさばいたのはアメリカの犯罪組織の大物、メイヤー・ランスキー、サント・トラフィカンテ・ジュニア、サム・ジアンカーナなど。そうした犯罪組織とCIAの仲介役を務めていたとされているのがリチャード・アーミテージの極東トレーディング社だ。

アメリカはニカラグアなどラテン・アメリカでも秘密工作を実行、ここではコカインが生産され、アメリカへ流れ込んでいる。1985年にパリーとバーガーがコントラの麻薬密輸の記事が出たわけだが、それに注目した議員がいる。上院外交委員会の「テロリズム・麻薬・国際的工作小委員会」で委員長を務めていたジョン・F・ケリーだ。1986年4月から調査を開始、89年12月にはコントラがコカイン取引を行っているとする内容の報告書を出している。

その後、サンノゼ・マーキュリー紙の記者だったゲイリー・ウェッブの記事を受けて実施されたCIAの内部調査でもコントラが麻薬取引に手を出していたことを認めている。なお、ウェッブは麻薬に関する記事が原因でニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ロサンゼルス・タイムズ紙を含む有力メディアから総攻撃を受けて退社を余儀なくされ、自殺に追い込まれている。

パリーが明らかにした事実の中には1980年の大統領選挙における不正行為も含まれている。1979年11月4日にイランの首都テヘランで「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」なるグループがアメリカ大使館を占拠、大使館員など52名を人質にとったが、この人質がいつ解放されるかが選挙で大きな焦点になった。そこで、共和党のロナルド・レーガン陣営とジョージ・H・W・ブッシュ陣営はイランやイスラエルの代表と秘密会談を何度か開き、人質の解放を遅らせることで合意する。この事実を暴き出したのがパリーだ。人質が解放されたのはレーガンの大統領就任式が行われた1981年1月20のこと。この時の合意に基づき、イランへ武器が密輸された。

パリーは権力者にとって「嫌な」ジャーナリストだったことは間違いない。詳しく紹介できないが、それだけ功績を残してきたということでもある。まだ活躍して欲しいジャーナリストだった。





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最終更新日  2018.01.30 07:58:46



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