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《櫻井ジャーナル》

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2018.03.15
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「9月文書」をアメリカのコリン・パウエル国務長官も絶賛していたが、ある大学院生の論文を無断引用したもの。内容もイラクの脅威を正当化するために改竄されていたことが後にわかる。

それに対し、2003年5月29日にBBCのアンドリュー・ギリガンはラジオ番組で「9月文書」は粉飾されていると語り、サンデー・オン・メール紙でアラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。

ギリガンが「45分話」の疑惑を語って間もなく、彼の情報源が国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということがリークされる。実際、2003年5月22日にギリガンとロンドンのホテルで会っていた。そのためケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出され、17日に死亡する。公式発表では「自殺」ということになっているが、疑問は多く、今でも他殺説は消えていない。その後、BBCで粛清があった。執行役員会会長とBBC会長が辞任、ギリガンもBBCを離れたのだ。この後、BBCはプロパガンダ色が強まる。なお、2004年10月に「45分話」が嘘だということを外務大臣のジャック・ストローが認めている。

後に​コリン・パウエルの書いたメモ​の存在が判明、その中で2002年3月28日にブレア首相がパウエルに対してイギリスはアメリカの軍事行動に加わると書いている。つまり開戦の1年前にでブレアは開戦に同意していた、あるいはそのときに侵略を始める予定だったことになる。実は、統合参謀本部内にイラク侵略に反対する意見があり、半年から1年ほど開戦が遅れた可能性が高い。そうした対立があった頃、ブレア政権は「9月文書」を作成、リークしたのだ。

アメリカでこの偽情報を国連で宣伝したのがパウエル。この人物に好意的な印象を持ち、大量破壊兵器の話はパウエルも騙されたのだと信じている人もいるようだ。アメリカ政府には「良い閣僚」と「悪い閣僚」がいて、システム自体は民主的だと思いたいのだろうが、実態は違う。

パウエルは1962年から63年にかけて軍事顧問団のひとりとして南ベトナムに派遣されていた。1968年にも南ベトナムへ入っているが、このときは第23歩兵師団の将校としてだ。

その年の3月に南ベトナムのソンミ村のミライ集落とミケ集落で非武装で無抵抗の村民が第23歩兵師団の第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊の第1小隊に虐殺されている。犠牲者数はアメリカ軍によるとミライだけで347人、ベトナム側の主張ではミライとミケを合わせて504人。これはソンミ事件ともミライ事件とも呼ばれている。



この虐殺はCIAが特殊部隊と手を組んで展開していたフェニックス・プログラムの一環として行われたもので、従軍していた記者やカメラマンもその事実を知りながら沈黙していた。

この住民虐殺プログラムが公の席で明らかにされたのは1970年代に入ってから。この作戦を指揮した経験のあるウィリアム・コルビーCIA長官(当時)は議会でこの件について証言、「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」と明らかにしているが、プログラムが実行されたのはこの期間だけでなく、解放戦線の支持者と見なされて殺された住民は約6万人だとする推測もある。

フェニックス・プログラムも含め、CIAの秘密工作について話しすぎたと判断されたようで、ジェラルド・フォード大統領は1976年1月にコルビーを解任、ジョージ・H・W・ブッシュを後任に据えた。ブッシュはエール大学の学生だった時にCIAからリクルートされたと信じられている。

ソンム村の虐殺だけでなく、ほかのケースでも内部告発はあったのだが、そうした告発をもみ消す仕事をパウエルはしていたとも言われている。上官が聞きたい内容の報告書を作り上げていたということだ。パウエルが異例の出世をした理由はそこにあるだろう。(了)






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最終更新日  2018.03.15 17:00:04



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