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《櫻井ジャーナル》

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2018.11.28
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 台湾の統一地方選挙の投票が11月24日にあり、蔡英文総統率いる与党の民主進歩党(民進党)は首長ポストを選挙前の13から6へ減らして大敗、蔡英文は敗北の責任をとって党主席を辞任した。野党の国民党は6から15へ増やしている。

 民進党は中国からの台湾独立を志向している。そのひとつの結果としてアメリカとの関係を強めた。中国とのビジネスで経済を発展させていた台湾だが、民進党の政策はそうした関係を崩した。アメリカとのビジネスが盛んになれば良かったのだろうが、それができなかった。同じような問題を日本も抱えている。

 アメリカ支配層は台湾独立を公然とは支持していないが、ジョージ・W・ブッシュ大統領は中国が台湾を武力攻撃したならアメリカが軍事介入すると発言、バラク・オバマ大統領は台湾のICAO(国際民間航空機関)加盟を支持、兵器を供給を宣言、ドナルド・トランプ政権は台湾との政治的なつながりを強めている。

 アメリカの支配層から見ると、自分たちに接近する民進党は中国に揺さぶりをかける便利な道具。現在、アメリカは中国の一帯一路を破壊するため、「陸のシルクロード」はジハード傭兵などを投入して戦乱を拡大させ、「海のシルクロード」ではその出発点になる東シナ海や南シナ海で軍事的な緊張を高めている。安倍晋三政権の沖縄政策もそうした観点から見る必要がある。アングロ・サクソンにとって、台湾は日本に並ぶ大陸支配の拠点だ。

 台湾で独立運動を行っているひとりに吾爾開希と名乗る人物がいる。1980年代に中国で学生運動を指導していたが、抗議活動が沈静化した後にイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのはアメリカのCIAとイギリスのSIS(通称MI6)だ。吾爾開希はハーバード大学で学び、それから台湾へ渡った。アメリカやイギリスの支配層は水面下で台湾独立を煽っているということだ。

 第2次世界大戦後、中国に国民党体制を築くというアメリカのビジョンは実現できず、両国の関係は冷却する。その関係を改善させたのがリチャード・ニクソン大統領だった。

 ニクソンが中国を訪問してから両国の関係は友好的になりのだが、その一方で中国に「劇薬」をもたらした。中国は新自由主義を導入したのだ。

 当然のことながら富が一部の特権グループに集中、貧富の差が拡大して社会は不安定化、そこで中国政府はそうした政策を軌道修正しようとする。それに対抗する形で始まったのが「民主化」運動。

 学生が支持、鄧小平を後ろ盾とする趙紫陽は1984年にホワイトハウスでロナルド・レーガン大統領と会談、88年には「経済改革」を実施するのだが、その政策でインフレが深刻化する。

 趙紫陽とつながっていた胡耀邦は1987年1月に失脚、2年後に死亡する。その死を切っ掛けにして天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれ、「天安門事件」につながる。

 西側では軍隊が天安門前の広場で学生らに発砲して数百名が殺されたとされたと宣伝されているが、広場での虐殺を否定する証言がある。

 例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたというのだ。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官カルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで、群集への一斉射撃はなかったと話している。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)

 イギリスのデイリー・テレグラム紙によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)

 北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたとするアラン・ドナルド中国駐在イギリス大使の話も伝えられているが、その話は「信頼できる情報源」から得た情報であり、目撃したわけではない。

 虐殺情報の発信源は学生の指導者だが、そのひとりが吾爾開希。虐殺があったとされる時刻に彼らは広場にいなかった。ドナルドたちも学生指導者と緊密な関係にあり、そうした学生が彼らの情報源だった可能性が高い。つまり、信頼度は低いということだ。

 1989年4月に中国駐在アメリカ大使はウィンストン・ロードからジェームズ・リリーに交代したが、このリリーは1946年にエール大学へ入学、51年にCIA入りしたと言われている。同じ頃にエール大学で学び、そこでCIAにリクルートされたひとりがジョージ・H・W・ブッシュ。このブッシュとリリーは親しい関係にあり、両者とも中国との関係が深い。

 ブッシュは中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めた後、1976年から77年にかけてCIA長官を務め、81年1月から89年1月まで副大統領、そして89年1月にはアメリカ大統領に就任した。

 ちなみに、リリーの前任大使であるロードは大使を辞めた数カ月後、CIAの資金を流す役割を負っているNEDの会長に就任した。ロードはブッシュやリリーと同じようにエール大学を卒業している。

 この3人はエール大学に秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーだったと言われているが、この結社を創設したウィリアム・ラッセルは中国でアヘンを売って儲けた人物だ。






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最終更新日  2018.11.28 00:00:22



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