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《櫻井ジャーナル》

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2018.12.14
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 ドナルド・トランプ大統領は12月7日、次期司法長官としてウィリアム・バーを指名した。ジョージ・H・W・ブッシュが大統領だった1990年5月から91年11月にかけて司法副長官、91年11月から93年1月まで司法長官を務めているが、元々はCIAの人間である。

 バーはコロンビア大学で1971年に学士、73年に修士を授与された。この大学はズビグネフ・ブレジンスキーというCIAの大物が教えていた場所だが、バーは高校時代にCIAからリクルートされたと言われている。1973年からCIAで働いていることは隠されていない。

 ジョージ・H・W・ブッシュがCIA長官になった1976年、バーはCIAの法務部門に配属され、秘密工作チームの一員として活動しはじめる。当時の大統領はリチャード・ニクソンの失脚を受け、副大統領から昇格したジェラルド・フォード。

 フォード大統領はデタント派を粛清するが、そのひとりとしてウィリアム・コルビーCIA長官が解任されている。コルビーはフランク・チャーチ上院議員の委員会などでCIAが行った秘密工作の一端を明らかにし、CIA人脈から危険だと判断されたようだ。議会の調査をバーは妨害する役割を負っていた。

 1980年の大統領選挙でCIA人脈はブッシュを支援するが、共和党の候補者選びでロナルド・レーガンに敗北、レーガン政権でブッシュは副大統領に就任する。

 この選挙における民主党の候補は現職のジミー・カーター。ブレジンスキーとデイビッド・ロックフェラーが選んだ人物だったが、イスラエルへの忠誠心が不十分だったこともあって激しく批判され、再選はならなかった。

 カーター政権で国際問題は国家安全保障長官だったブレジンスキーが担当、ソ連軍をアフガニスタンへ誘い込み、そこでジハード傭兵と戦わせるという作戦を立てた。傭兵の中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団。アフガニスタンへ戦闘員を送り込む仕事をしていたひとりがサウジアラビアの富豪の息子、オサマ・ビン・ラディンだ。

 この政権でCIA長官だったスタンスフィールド・ターナーはCIA内部の破壊工作グループを追放したが、ブレジンスキーはそうした人脈を使う。その際に利用したのがフランス、サウジアラビア、王政時代のイラン、モロッコなどの情報機関メンバーが作ったサファリ・クラブ。その中心にはCIA人脈が存在していた。

 ブレジンスキーの戦略に基づいてカーター大統領はジハード傭兵への支援プログラムを承認、1979年5月にはCIAイスタンブール支局長がパキスタンの情報機関ISIの協力でアフガニスタンのリーダーたちと会談している。(Alfred W. McCoy, “The Politics Of Heroin”, Lawrence Hill Books, 1991)

 ブレジンスキーの思惑通り1979年12月にソ連軍がアフガニスタンへ軍事介入する。CIAは工作資金を調達するために武器や麻薬の密輸を行う。麻薬取引はベトナム戦争の際にも使った方法。そうした闇資金を処理する役割を負っていたのがBCCIにほかならない。

 アフガニスタンにおける秘密工作の一端はイラン・コントラ事件として発覚、ジョン・ケリー上院議員らが調査を始める。レーガン政権ではブッシュ副大統領の下でブレジンスキーの秘密工作は継続されていた。ブッシュの下にいたバーが議会の調査を妨害する。

 CIAはアフガニスタンでヘロイン、ニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)支援ではコカインの取り引きで稼いでいたが、テリー・リードによると、こうした麻薬取引を取り仕切っていたのがバー。その工作でバーは「ロバート・ジョンソン」と名乗っていた。

 ジョージ・H・W・ブッシュは死亡したが、その手下は今でもホワイトハウスの周辺を徘徊している。






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最終更新日  2018.12.14 15:00:06



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