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《櫻井ジャーナル》

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2019.06.02
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 コソボのROSU(警察の特殊部隊)がセルビア人が住む地区を襲撃、23名を拘束した。その中にはUNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)に所属するロシア人外交官が含まれ、このロシア人を含む複数が負傷している。

 襲撃の名目は「組織犯罪網」の摘発だが、明らかにセルビア人を狙った行動。かつてシオニストがイスラエルを作り上げる際に先住のアラブ系住民を襲撃、惨殺して残る人びとを難民化させたが、同じことをしようとしているのだろう。

 コソボはユーゴスラビアの一部だった。そのユーゴスラビアを解体する工作が始まったのは1984年。この年、ソ連圏を「静かな革命」で倒そうというNSDD133にロナルド・レーガン大統領が署名したのだ。その工作のパートナーになったのがポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世。西側支配層にとって都合良いことに、ソ連では1985年に西側を信仰しているミハイル・ゴルバチョフが最高指導者に就任する。

 その前にレーガン政権は「民主化」というタグをつけて侵略することにしている。プロジェクト・デモクラシーだ。一種の心理戦である。その心理戦を実行するためにSPG(特別計画グループ)をNSC(安全保障会議)に設置。そのために大統領は1983年、NSDD77に署名した。

 レーガン政権で国外における秘密工作を指揮していたのは副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ。ゴルバチョフ時代にCIAやそのOB人脈はソ連でクーデター(ハンマー作戦)を計画していた。

 1989年1月にブッシュは大統領に就任、91年7月にロンドンで開催されたG7首脳会談にゴルバチョフを招待し、そこで新自由主義の導入を求める。それを拒否したゴルバチョフは同年8月に「クーデター未遂」を切っ掛けに実権を失い、西側支配層の操り人形だったボリス・エリツィンがソ連を解体へと導くことになる。エリツィンは12月にベラルーシのベロベーシで勝手にソ連の解体を決めてしまったのだ。

 こうした動きはソ連国民の意思を反映したものではなかった。例えば1991年3月にロシアと8つの共和国で行われた国民投票では、76.4%がソ連の存続を望んでいた。国民投票が実施された共和国の人口はソ連全体の93%で、ソ連全体の意思だと思って構わないだろう。(Stephen F. Cohen, “Soviet Fates and Lost Alternatives,” Columbia University Press, 2009)

 ソ連解体後、旧ソ連圏は西側支配層に食い荒らされて庶民は貧困化、その一方で西側支配層やその手先になった一部の人びとは巨万の富を手にする。オリガルヒという成り上がりが登場するのはその結果だ。

 エリツィンによってロシアが弱体化される中、西側の有力メディアは広告会社と手を組み、旧ソ連圏を侵略するように煽っている。このころからメディアは人びとが戦争に合意するよう、偽情報を露骨に流している。当初、ビル・クリントン政権は戦争に消極的だったが、さまざまな圧力に負けて戦争へと傾いていく。大きな転換点は1997年の国務長官交代だ。

 一方、ユーゴスラビアでは西側の働きかけもあり、解体の動きが顕在化する。まず1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言、同年9月にマケドニアが、翌年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナと続き、4月にはセルビア・モンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を結成している。そしてユーゴスラビア連邦共和国からコソボを剥ぎ取ろうとする動きが始まったのである。当時、ユーゴスラビアを解体する工作を現地で指揮していたのはリチャード・マイルズだ。

 1992年3月にユーゴスラビア駐在米国大使だったウォーレン・ジンマーマンはサラエボでボスニアのイスラム指導者だったアリヤ・イザドベゴイチと会談した。

 その数日前、EU主導でボスニア・ヘルツェゴビナでの流血を避けるため、イスラム、ギリシャ正教、カトリックで住み分けることで合意していたのだが、その合意を破棄すればアメリカがイザドベゴイチたちを全面的に支援すると約束したのだ。ジンマーマンに指示を出していたのは国務副長官のローレンス・イーグルバーガーだったという。

 ジャーナリストのレナテ・フロットーによると、サラエボにあったイザドベゴイチのオフィスで1993年から94年にかけてオサマ・ビン・ラディンを何度か見かけたという。アフガニスタンからソ連軍が消えた後、ジハード傭兵はユーゴスラビアへ移動したということだろう。主なルートはクロアチア経由だったとされている。(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)

 クリントン政権で最初の国務長官であるクリストファー・ウォーレンはユーゴスラビアとの戦争に消極的だったのだが、1997年1月に好戦派のマデリーン・オルブライトと交代して状況は一変する。オルブライトはズビグネフ・ブレジンスキーの教え子。この人事を大統領に働きかけていたのはヒラリー・クリントンだった。

 そして1999年5月にNATOはユーゴスラビアに対する空爆を開始、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃されている。これは侵略戦争以外の何ものでもない。

 アメリカがコソボを乗っ取るために使ったのはKLA(コソボ解放軍、UCKとも表記)。1996年2月頃から台頭してくる。この集団にはクロアチアのネオ・ナチが入り込んでいた。

 その指導者のひとりがハシム・サチなる人物。後に首相、そして大統領になるが、アルバニアの犯罪組織とつながり、麻薬取引や臓器の密売に関与していたと言われている。こうした実態はその後も基本的に変化していない。

 アメリカはアフガニスタン侵略でカネ儲けのためにヘロインを利用していたが、主要な輸送ルートはコソボを通過、それにともなう儲けがKLAの資金源になっていた。

 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で検察官を務めたカーラ・デル・ポンテは自著の中でKLAによる臓器の密売に触れている。コソボで戦闘が続いている当時、KLAの指導者らが約300名のセルビア人捕虜から「新鮮」な状態で、つまり生きた人間から臓器を摘出し、売っていたというのだ。

 その勢力が今でもコソボを支配、それをアメリカやEUは支持している。ROSUによるセルビア人襲撃の先には新たな民族浄化策があるのではないかと懸念されている。






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最終更新日  2019.06.02 10:54:25



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