27367487 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

《櫻井ジャーナル》

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

サイド自由欄

バックナンバー

2021.02.11
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

 日本では2月11日を「建国記念の日」としている。どの国でも祝日にはその国のあり方が反映されているが、特に「建国」はそうした意味合いが強い。

 日本は第2次世界大戦で敗北、生まれ変わったことになっている。ポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を決め、その事実を同盟通信の海外向け放送で明らかにしたのは8月10日。14日には受諾を通告、16日に日本軍は停戦命令を出し、9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した。その間、8月15日に「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流されている。

 降伏後の日本は連合国軍、事実上アメリカ軍に占領された。この状態が解消されたのは1951年9月8日。サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」が結ばれ、同じ日にプレシディオ(第6兵団が基地として使っていた)で日米安保条約が調印された。平和条約の発効は翌年の4月28日。

 9月2日、9月8日、4月28日などを「建国記念の日」にしても良さそうだが、そうしなかった。憲法の施行を「建国」と考えることもできるが、5月3日を憲法記念日にしている。この日が「建国記念の日」にされることを回避するためだという見方もありえる。そして「紀元節」を復活させた。

 ところで、講和会議には日本を含む52カ国が出席したものの、中国の代表は招請されず、インド、ビルマ(現在のミャンマー)、ユーゴスラビアの3カ国は出席せず、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは調印式に欠席した。

 対日平和条約の調印式には日本側から首相兼外相の吉田茂、蔵相の池田勇人、衆議院議員の苫米地義三、星島二郎、参議院議員の徳川宗敬、そして日銀総裁の一万田尚登が出席した。安保条約の署名式には吉田ひとりが出席している。

 この年の4月、ウィンストン・チャーチルはニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話している。​そうした会話があったとする文書​が存在するのだ。

 1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月にドイツは降伏するが、その直後にチャーチルはイギリスの首相としてソ連を奇襲攻撃する計画をJPS(合同作戦本部)にたてさせた。そして作成されたのがアンシンカブル作戦。

 その作戦では7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団でソ連を攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この計画が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだ。

 アメリカの原子爆弾開発もチャーチルに影響を与えた可能性があるだろう。7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功したのだ。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可した。チャーチルはその2日後に下野した。8月6日に広島、9日には長崎へ原爆が投下される。

 マンハッタン計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。日本の降伏を早めるために広島と長崎へ原爆を投下したわけではなく、ソ連との戦争を始めたということだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 チャーチルがアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の開幕を宣言したのは1946年3月5日。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。そしてアドラーに対する発言が続く。

 アメリカでは1957年に軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったとしている。

 そうした流れの中、日本はアメリカを中心とする国々と平和条約を締結し、アメリカと安保条約を結んだのである。アメリカが1950年代に沖縄を軍事基地化したのもソ連や中国を攻撃する準備であり、核兵器が持ち込まれたのは必然。その当時、アメリカはソ連や中国を核攻撃するつもりだったのであり、沖縄はそのための拠点と考えられた。「核の傘」という議論は妄想に基づくものだ。

 「建国記念の日」は「紀元節」の言い換えだが、この「紀元節」が定められたのは1873年10月のこと。『日本書紀』を引っ張り出し、神武天皇が即位した日を割り出し、1872年12月には1月29日だと決められたという。ところが1月29日では旧暦(太陰暦)の1月1日になり、「旧正月を祝う日」だと考える人が多くなってしまう。そこで日付を変えることにしたようだ。孝明天皇が1867年1月30日に死亡しているので、紀元節と孝明天皇の命日が近いことも日付変更の一因になったと言われている。

 ちなみに、日本書紀によると神武天皇が橿原宮で即位したのは「辛酉年春正月庚辰朔」(辛酉の年の正月1日、庚辰の日)、西暦では紀元前660年に相当する。つまり縄文時代の晩期、あるいは弥生時代の前期ということになる。

 妄想に基づいて2月11日を「建国記念の日」や「紀元節」と決めたということだが、それは近代日本の姿を示している。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.02.11 18:33:05



© Rakuten Group, Inc.