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《櫻井ジャーナル》

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2021.12.27
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 現在、軍事的な緊張が高まっているウクライナにおいて、アメリカをはじめとする西側の私的権力はステパン・バンデラの信奉者を手先として使っている。バンデラは第2次世界大戦の前、OUN(ウクライナ民族主義者機構)の一派を率いていた人物であり、その信奉者はネオ・ナチに分類されている。

 OUNは当初、イェブヘーン・コノバーレツィに率いられていたが、1938年に暗殺されてしまう。アンドレイ・メルニクが組織を引き継ぐが、この新指導者は穏健すぎると反発したメンバーは反ポーランド、反ロシアを鮮明にしていたステパン・バンデラの周辺に集まり、1941年3月になるとメルニク派のOUN・Mとバンデラ派のOUN・Bに分裂する。ドイツ軍がバルバロッサ作戦を始める3カ月前のことだ。

 このOUN・Bをイギリスの情報機関MI6のフィンランド支局長だったハリー・カーが雇うが、その一方でドイツが資金を提供、バンデラの側近だったミコラ・レベジはクラクフにあったゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入った。

 バルバロッサ作戦はドイツやイギリスの思惑通りには進まない。レニングラード攻略に失敗、モスクワも制圧できないまま1942年8月にドイツ軍はスターリングラードに突入するが、11月からソ連軍の猛反撃にあい、翌年の1月に降伏。これでドイツの敗北は決定的になった。それから間もない1943年春にOUN・BはUPA(ウクライナ反乱軍)として活動を始め、その年の11月に設立された「反ボルシェビキ戦線」の中心的な存在になる。

 世界大戦後、1946年4月に反ボルシェビキ戦線はABN(反ボルシェビキ国家連合)になる。東アジアで1954年にAPACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)が組織されるが、このAPACLとABNは1966年に合体してWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)になった。(Scott Anderson & Jon Lee Anderson, “Inside the League”, Dodd, Mead & Company, 1986)

 MI6は戦後、反ソ連組織の勢力拡大を図る。ABNは中央ヨーロッパをカトリックで支配しようというインターマリウム構想の勢力と連合、バンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコが指揮する。1948年にアメリカでは極秘のテロ組織OPCが設立され、アルバニア対する工作を最初に行った。この組織とステツコたちは連携するが、ソ連のスパイだったMI6のキム・フィルビーからソ連側へ情報は伝えられていた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが勝利した。そのニューディール派を排除するためにウォール街の金融機関はクーデターを計画した。この事実は本ブログでも繰り返し書いてきたことだ。

 クーデターを実行するにあたり、誰を司令官にするかで意見が割れたという。JPモルガンは自分たちに近いダグラス・マッカーサーを推したが、軍の内部で人望が足りないという意見が多数を占め、名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラーを選んだのである。なお、マッカーサーの結婚相手の母が再婚した人物はJPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーだ。

 バトラーはJPモルガンが懸念した通りに護憲派で、クーデター計画の内容を聞き出した上でカウンター・クーデターを宣言、議会で詳しく証言している。フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を参考、50万名規模の組織を編成して政府を威圧し、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。その一方、民主党の内部にはニューディール計画に反対する議員が「アメリカ自由連盟」を設立している。

 バトラーはクーデター計画をフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに知らせ、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse, 2007)

 ウォール街の住人たちはアメリカ国内でクーデターを計画するだけでなく、資金をナチスなどへ提供している。そうした資金パイプのひとつがユニオン・バンキングという金融機関。1924年にプレスコット・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュの父親)とW・アベレル・ハリマンが創設した。ふたりを監督していたのはプレスコットの義理の父親にあたるジョージ・ハーバート・ウォーカーだ。1931年にプレスコットはブラウン・ブラザーズ・ハリマンの共同経営者になる。

 ブラウン・ブラザーズの代理人を務めていたウォール街の弁護士事務所、サリバン・クロムウェルの共同経営者にはジョン・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟も名を連ねていた。プレスコットはダレス兄弟とも知り合いだった。

 戦争が終結すれば、ニューディール派はウォール街とナチスとの関係を追及しただろうが、1945年4月にルーズベルト大統領が急死、戦後にはレッド・パージで反ファシズム派が粛清されてしまった。

 その一方、アメリカの私的権力はナチスの高官や協力者をラテン・アメリカへ逃すラットライン、そうした人々をアメリカ国務省やCIAが雇うブラッドストーン作戦、ドイツの科学者やエンジニアを雇うペーパークリップ作戦などが実行されている。

 アメリカ政府がウクライナでクーデターを実行するためにネオ・ナチを使ったのは必然だった。それだけでなく、私的権力は侵略にさまざまな手先を使っている。例えば、ヨーロッパやラテン・アメリカではネオ・ナチ、中東から東アジアにかけての地域ではサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団といった具合だ。中国の周辺では少数民族も使われる。日本は明治維新以降、基本的に、アメリカやイギリスの手先として活動してきた。その構造は本ブログでも繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。






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最終更新日  2021.12.27 11:18:52



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