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ソ連を攻撃するための原爆 ヤルタ会談の後、連合国側の状況は大きく変化していた。フランクリン・ルーズベルト米大統領が4月12日に急死、副大統領でシオニストを後ろ盾とするハリー・トルーマンが昇格したのだ。ルーズベルトの急死でニューディール派の影響力は急速に低下、ウォール街の巨大資本がホワイトハウスを奪還することになる。 ソ連軍による中国東北部の占領はトルーマン政権にとって容認できないことだった。彼は国民党に中国を占領させようとしていたからだ。ソ連と東ヨーロッパ情勢に関する交渉と絡め、中国からの撤兵をアメリカはソ連に認めさせたという見方がある。そうした交渉で原爆投下は影響を及ぼしただろう。 大戦中、ドイツや日本も核兵器の研究開発を進めていたが、連合国側で最も積極的だったのはイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立された。 この委員会のマーク・オリファントがアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会ったのは1941年8月。そしてアメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。この年の10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前のことだ。 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。 こうして「マンハッタン計画」が始まったが、その計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017) マンハッタン計画が本格化した頃、すでにドイツ軍の主力がスターリングラードでソ連軍に降伏、独ソ戦の勝敗は決していた。ソ連への軍事侵攻はアドルフ・ヒトラーの命令で全戦力の4分の3を投入、その部隊が敗北したのだ。残りの4分の1が西ヨーロッパで戦っていた相手はコミュニストを主体とするレジスタンスだけだ。(続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.07.25 00:00:14
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