カテゴリ:カテゴリ未分類
ジョー・バイデン米大統領は今年5月、ウクライナに対する400億ドル相当の支援を行う法案に署名した。新たな兵器供給なのだが、ここにきてアメリカのネットワーク局CBSは「ウクライナ武装」の中でウクライナへ供給された兵器のうち前線の兵士に届くのは全体の30%にすぎないと伝えた。これを受け、法案に反対した共和党のマジョリー・グリーン下院議員とローレン・ボーバート下院議員が改めて新たな兵器供給を批判している。 こうした動きが出た後、CBSはその報道を「訂正」し、4月に撮影した後に状況は改善され、問題はなくなったと主張しているが、アメリカ/NATOが供給した兵器が「ブラックホール」の中へ吸い込まれているという話は今でも指摘されている。 人質戦術で戦っていたウクライナ軍だが、3月の後半には抵抗が限界に達していたと見られる。その頃、ウォロディミル・ゼレンスキー政権はロシア語系住民を支持基盤とする11の政党を禁止、そうした政党のひとつを率い、軟禁状態だったビクトル・メドヴェドチュクは4月に逮捕され、手錠をかけた姿を撮影した写真が公開されている。これはキエフ政権がすでに追い詰められていたことを示唆している。指揮系統が乱れ、兵器の管理も緩くなっただろう。 4月7日にはフィリップ・ブリードラブ元NATO欧州連合軍最高司令官(SACEUR)は核戦争への恐怖がウラジミル・プーチンに対する適切な対応を西側はとれないのだと発言したが、これはロシアとの核戦争を恐れるなということ。恫喝をその程度まで引き上げろと言わざるをえないほどウクライナ軍の劣勢は深刻だということだろう。 その発言があった2日後にイギリスのボリス・ジョンソン首相がキエフを訪問したが、それを境にしてロシア政府とウクライナ政府の停戦交渉は止まったようだ。戦争を継続するように指示したと見られている。 ウクライナでは言論統制が強化されていたが、それでも国内で戦争の継続に反対する声が高まったようで、4月21日にミコライフ州のビタリー・キム知事は「ウクライナ24テレビ」の番組で「全ての裏切り者を処刑する」と語っている。処刑を実行するための秘密部隊を編成、すでに作戦を遂行しているともしていた。それだけ民心がゼレンスキー政権から離れているということだ。 そして4月30日、ナンシー・ペロシ米下院議長が下院議員団を率いてウクライナを訪問、ゼレンスキー大統領に対し、ウクライナへの「支援継続」を誓い、戦争の継続を求めた。2014年にウクライナで戦争を始めたアメリカの好戦派は必死に戦争を継続させようとしている。そして5月の法案だ。 ドイツのシュピーゲル誌によると、ウクライナ側の抵抗は7月いっぱいで終わり、ロシア軍は8月にドンバス全域を制圧できると同国の情報機関BND(連邦情報局)は分析している。その後の展開を見るとこの分析は正しかったようだ。 ウクライナ軍が市民を危険に晒す戦術を採用していることは人権擁護団体のアムネスティも認めた。8月4日に発表した報告でそのように指摘したのだ。学校や病院を含む住宅地にキエフ政権側の武装勢力が軍事基地を建設、そうした場所から攻撃することで住民を危険な状態になったとしている。 ウクライナから消えた兵器の相当数はブラックマーケットへ流れていると見られているが、中東や中央アジアの武装勢力が手にしている可能性もある。アメリカが戦乱を拡大させ、ロシアや中国を揺さぶりたいと考えている地域だ。 アメリカの国防総省系シンクタンク、RANDコーポレーションが2019年に出した報告書では、ウクライナの武装強化やベラルーシの体制転覆のほか、シリアで政府軍と戦っているサラフィー主義者(ワッハーブ主義者やタクフィール主義者と渾然一体)やムスリム同胞団を中心とする戦闘集団への支援強化、南カフカスでの緊張を煽るといったことが主張されている。 ウクライナでロシア軍が介入する直前、カザフスタンでクーデターが試みられ、失敗した。1月2日から旧首都のアルマトイなどで暴力的な反政府活動が始まり、救急車やパトカーが放火されるだけでなく、市庁舎も放火される事態になっていた。この時に派遣されたCSTO(集団安全保障条約)の平和維持部隊は事態の沈静化に重要な役割を果たしたようだ。 カザフスタンはウランやレア・アースの産出国だというだけでなく、ロシアと中国に接する戦略的に重要な場所にある。ここをアメリカが支配できていたなら、ウクライナ情勢は変わっていたかもしれない。 このクーデター未遂では1月6日にカザフスタンの安全保障会議で議長を務めていたカリム・マシモフが解任され、反逆罪で逮捕されたと伝えられている。ヌルスルタン・ナザルバエフ前大統領の甥も反逆罪で拘束されたとも伝えられた。ナザルバエフはトニー・ブレア元英首相からアドバイスを受けていた人物で、1995年から投機家のジョージ・ソロスもカザフスタンへ食い込んでいた。 ブレアは政界で台頭してくる直前の1994年1月、妻と一緒にイスラエルへ招待された。3月にはロンドンのイスラエル大使館で紹介された富豪のマイケル・レビーはその後、彼の重要なスポンサーになる。イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIも資金源にしていた。真のスポンサーはイスラエルだと見られている。 そのブレアが労働党の党首になるチャンスが1994年に訪れる。当時の党首、ジョン・スミスがその年の5月に急死したのだ。その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利して新しい党首になり、1997年5月にブレアは首相に就任。国内ではマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義を推進、国外では親イスラエル的で好戦的なものになり、アメリカによるイラクへの先制攻撃を正当化するため、偽文書を作成している。 ブレアはジェイコブ・ロスチャイルドやエブリン・ロベルト・デ・ロスチャイルドと親しいが、首相を辞めた後、JPモルガンやチューリッヒ・インターナショナルから報酬を得るようになる。亡命中国人で反中国運動を続けている富豪の郭文貴をアブ・ダビの王室に紹介し、30億ドルを調達させたのもブレアだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.08.08 14:04:17
|