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59年前の11月22日、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディはテキサス州ダラスで暗殺された。 大統領一行がフォート・ワースに到着した11月21日夜、警護を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くは「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して翌日の未明まで騒いでいた。そのナイトクラブを経営していたパット・カークウッドはジャック・ルビーの友人。言うまでもなく、ルビーはJFK暗殺の犯人とされているリー・ハーベイ・オズワルドを警察署で射殺したとされている人物だ。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993) 22日の朝に大統領はフォート・ワースの空軍基地からダラスへ移動し、そこでパレード用のリムジン(1961年型のリンカーン・コンバーティブル)に乗り込んだ。当時のダラス市長アール・キャベルはケネディ大統領に解任されたチャールズ・キャベルCIA副長官の弟だ。同じように解任されたCIA長官がアレン・ダレスである。 リムジンより約400メートル前方を走るパイロット・カーを運転していたジョージ・ランプキンはダラス警察副本部長で、予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていた。隊長のジャック・クライトンはダラスの石油業者で、同業者のジョージ・H・W・ブッシュと親しい。そのクライトンは第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、ヨーロッパで活動していた。 パレードで使われたリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。 大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言、元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。 そして12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。パレードの後方にある教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令しているが、これ無視してクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。また銃撃の際、リムジンはほとんど停車していたと50名以上の人が証言している。勿論、パレードの前方にオズワルドはいない。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012) ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。 ところがベセズダ海軍病院からペリーに電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求めてきたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言だ。ペリー本人から23日に聞いたという。数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だと訂正する。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013) 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。 パレードの前方には「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」があるが、銃撃の直後にそこへ駆けつけたダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。 同じ場所で銃撃の直前、兵士のゴードン・アーノルドは「シークレット・サービスのエージェント」を見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われ、アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。 アーノルドはパレードを撮影したが、銃撃が収まってからふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づき、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。銃撃後にグラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。 大統領を銃撃する様子をエイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムが存在することが知られている。事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。 LIFEの発行人だったC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレスらを中心にして行われたメディア支配プロジェクト「モッキンバード」の協力者でもあった。ストーリーはこのジャクソンの命令に従って動いていた。 後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られた。この機関は1996年にNIMA(国家画像地図局)の組み込まれ、現在のNGA(国家地理空間情報局)になっている。いずれのフィルムも長い間一般に公表されなかった。 こうした話はJFK暗殺にまつわる疑惑の一部、氷山の一角にすぎない。政府機関は今でも資料の全面公開を拒んでいる。暗殺を目撃した少なからぬ人物が変死していることは有名な話で、暗殺事件を調査するとして設置されたアール・ウォーレン最高裁長官を委員長とする「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」(通称ウォーレン委員会)は証拠や証言の隠蔽を図っている。またザプルーダーのフィルムは調べられなかったという。このフィルムを公開させたのはルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソンだ。1969年2月に法廷でフィルムは映写されたが、そのフィルムには大きな傷があった。 ウォーレン委員会が報告書を発表した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれ、プロの仕業だと見られている。 マリーが結婚したコード・メイヤーはその後、CIAで秘密工作部門の幹部を務めることになる。コードがCIA入りしてからふたりの関係は悪化したようで、1958年に離婚。1961年にマリーはジョン・F・ケネディ大統領と個人的に親密な関係になった。 大統領が暗殺された直後にマリーはハーバード大学で心理学の講師をしていた友人のティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。犯人は特定されていない。(Timothy F. Leary, “Flashbacks, Tarcher,” 1983) ケネディ大統領には敵が多かった。ソ連との「平和共存」を訴えていたことからソ連への先制核攻撃を目論んでいたアメリカの軍や情報機関の好戦派に憎悪され、イスラエルの核兵器開発を問題にしていたことから親イスラエルの富豪からも嫌われ、通貨発行権を政府が取り戻そうとしたことから金融界に危険視され、CIAの解体計画はCIAを怒らせている。CIAの背後は金融界だ。ケネディはCIAの受け皿としてDIAを創設したと言われている。 軍や情報機関の好戦派から憎悪されたひとつの事件がキューバ危機だろう。このグループはイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルと同じようにソ連を敵視、ソ連に対する先制核攻撃を計画していた。そうした中、ソ連はキューバへミサイルを持ち込む。キューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設をアメリカの偵察機U2が1962年9月に3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認している。(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001) ソ連は中距離ミサイルのサイトを6カ所、長距離ミサイルSS5のサイトを3カ所建設する予定で(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)、102発の核弾頭をキューバに持ち込もうとしていたとも言われている。(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001) また1961年から68年にかけて国防長官を務めていたロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、その当時、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。 好戦派はソ連軍の力を過小評価、キューバを空爆で破壊すべきだと主張していた。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは強硬派の作戦に同意しなかった。そして大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。ちなみに、キューバとアメリカとの間にはカリブ海が広がっているが、ウクライナはロシアと接している。 キューバ危機による軍事的な緊張の高まりを受け、アメリカ政府とソ連政府は話し合いを進めていたが、そうした中、10月27日にルドルフ・アンダーソンが乗ったU2がキューバ上空で撃墜された。同じ27日、シベリア上空ではU2をソ連のミグ戦闘機が迎撃するという事態になっている。核戦争の危機が迫っている最中、アメリカの戦略空軍はU2をソ連周辺に飛ばしていたのだ。 U2のパイロット、チャールズ・モールツビー少佐は司令部に連絡、引き返すように命じられてアラスカへ向かい、この偵察機を護衛するためにアメリカ側はF102Aを離陸させた。ベーリング海峡の上空を核武装した軍用機が飛び交うという緊迫した状況が生まれたのだ。幸いなことにミグよりもアメリカ軍機が早くU2を発見、無事帰還できた。 この事態を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したのだが、その後も別のU2がモールツビー少佐と同じコースを飛行している。軍やCIAの好戦派はコントロール不能になっていた。(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001) 10月27日にはアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。 たまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したことから核魚雷は発射されなかったが、もし発射されていたなら現場にいたアメリカの艦隊は全滅、核戦争に突入したと見られている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017) ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄ったというが、アメリカ側はキューバのソ連軍を実際の6分の1程度に過小評価していたことが後に判明している。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017) 10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたが、それを好戦派は察知し、27日に挑発的な行動へ出たと見られている。その延長線上にダラスにおける暗殺があると言えるだろう。好戦派はケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われている。 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、マリー・ピンチョット・メイヤーはキューバ危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に主張していたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.24 03:27:15
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