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《櫻井ジャーナル》

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2022.12.08
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 ​日本は射程3000キロメートル程度のミサイルを開発​し、2030年代の半ばまでに北海道へ配備する計画だと伝えられている。それが実現するとカムチャツカ半島も射程圏内だ。そして岸田文雄政権の与党である自由民主党と公明党は「敵基地攻撃能力」を日本が保有することで合意した。この合意は1995年に始まった準備の結果にすぎず、「奇襲攻撃」や「偽旗作戦」が待っているかもしれない。

 アメリカ国防総省系のシンクタンク「RANDコーポレーション」は2019年に出した報告書には地政学的な争いの中でアメリカが行いうる手段として、ウクライナの武装強化、シリアのジハード傭兵への支援強化、ベラルーシの体制転覆、アルメニアとアゼルバイジャン(南カフカス)の緊張激化などを掲げている。失敗したものもあるが、全て試みられた。

 ​RANDコーポレーションは今年にもレポートを発表​、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)による中国包囲を計画しているとしているのだが、インド太平洋地域でそうしたミサイルの配備を容認する国は日本以外にないという。しかも日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約がある。

 そこで、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力するという形にすることになり、そのASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成された。その計画を先取りする形で自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設し、19年には奄美大島と宮古島に作った。2023年には石垣島でも完成させる予定だという。

 ​日本政府は射程距離が1000キロメートル程度のミサイルを開発、艦艇、戦闘機、そして地上から発射できるようにし、地上発射の改良型は2024年度にも配備する方針​だとされていたが、アメリカの想定通りに事態が進んでいないためなのか、​日本政府はアメリカから亜音速の巡航ミサイル「トマホーク」を購入する意向だという話​が出てきた。

 トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルとされている。記事では「反撃能力」が強調されているが、このミサイルには言うまでもなく先制攻撃能力がある。RANDのレポートが作成された時点より事態が切迫しているのかもしれない。

 この戦略の基盤にはユーラシア大陸の周辺部を軍事的に支配して内陸部を締め上げるというイギリスが19世紀に作成した長期戦略がある。締め上げる三日月帯の西端はイギリスであり、NATOの東への拡大はロシアに対する圧力の一環だ。その先にはロシアの制服が見通されている。

 東端は日本だが、インド洋から西太平洋にかけてはAUKUS、つまりオーストラリア(A)、イギリス(UK)、アメリカ(US)を中心に据えた。そのアングロ・サクソン系3カ国で構成されるAUKUSへ日本は近づこうとしている。

 ヨーロッパ諸国は自分たちがギリシャ文明の後継者であるかのように宣伝しているが、ギリシャ文明は地中海文明の一部にすぎない。その文明が栄えていた時代、ヨーロッパの内陸部は未開の地だった。近代ヨーロッパは11世紀から15世紀にかけて中東を軍事侵略(十字軍)で財宝や知識を手に入れ、スペインやポルトガルは15世紀になると世界各地で略奪を開始、1521年にはエルナン・コルテスが武力でアステカ王国(現在のメキシコ周辺)を滅ぼして莫大な金銀を奪う。それ以降、金、銀、エメラルドなどを略奪、先住民を使って鉱山を開発した。そうして手に入れた財宝を海賊に奪わせていたのがイギリス。14世紀から16世紀にかけて起こったルネサンスはそうした略奪と殺戮の上に成り立っている。

 インドへの侵略と略奪で大儲けしたイギリスは中国(清)に手を伸ばすが、経済力では太刀打ちできない。そこで中国にアヘンを売りつけ、1840年から42年にかけて「アヘン戦争」を仕掛けた。1856年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」だ。この戦争でイギリスが手に入れた香港はその後、秘密工作や麻薬取引の拠点になる。犯罪都市になったとも言える。

 こうした戦争でイギリスは勝利したが、征服はできなかった。戦力が足りなかったからだ。そこで目をつけたのが侵略の日本列島であり、そこに住む日本人だ。彼らは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒した。これがいわゆる明治維新だ。1867年に「大政奉還」、69年に「王政復古」が各国の公使に通告された。

 こうして誕生した明治体制はアメリカやイギリスの影響を強く受け、大陸への軍事侵略を始める。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。廃藩置県の翌年に明治政府が「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合したのもそのためだ。

 日本は1874年5月に台湾へ軍事侵攻、75年9月に李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功。1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐと、日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。

 日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万人の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。つまり日本の背後にはシティが存在していた。

 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のテディ・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印されて日本の大陸における基盤ができた。

 日本にはルーズベルトと親しい人物がいた。金子堅太郎だ。ふたりともハーバード大学で学んでいる。そのふたりを何者かが引き合わせたのだ。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語った。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。日本の韓国併合はアメリカの戦略でもあった。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 1923年に起こった関東大震災の復興資金調達が切っ掛けになって日本はウォール街、特にJPモルガンの影響下に入る。そのJPモルガンが1932年に駐日大使として送り込んできたのがにほかならない。

 その年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選した。この結果を憂慮したウォール街の大物たちがファシズム体制の樹立を目指してクーデターを計画したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。このクーデターを潰したのが伝説的な軍人であるアメリカ海兵隊のスメドリー・バトラーだ。

 ところで、グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らと親しかったが、その中でも特に緊密だったのは松岡洋右だという。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる人物だ。

 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 第2次世界大戦の終盤、ドイツが降伏する前月にフランクリン・ルーズベルト大統領は急死、ハリー・トルーマンが副大統領から昇格している。大統領はヘンリー・ウォーレスを副大統領にしたかったのだが、民主党幹部の意向でトルーマンにされていた。

 トルーマンの背後には犯罪組織や腐敗した政治マシーンが存在、彼に多額の資金を提供していたひとりがアブラハム・フェインバーグ。裏ではシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる人物だ。リンドン・ジョンソンのスポンサーでもあった。

 大戦後、アメリカでは「レッド・パージ」という形で反ファシスト派が弾圧され、日本の進む方向はウォール街を後ろ盾とする「ジャパン・ロビー」が決める。決定事項を実行に移すため、1948年6月にACJ(アメリカ対日協議会)が創設されたが、その中心にいたのはジョセフ・グルーだ。

 大戦の前も後も日本はウォール街に支配されているのだが、日本がアメリカの戦争マシーンに組み込まれたのは1995年2月。国防次官補だったジョセイフ・ナイが「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、日本に進むべき道を示したのだ。

 そのレポートは1992年2月に作成されたアメリカの世界制覇プラン、ウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づいている。これを書いたのはネオコンのポール・ウォルフォウィッツ。1991年12月にソ連が消滅したことでアメリカは他国に気兼ねすることなく行動できるようになったと考えたのだが、細川護煕政権は国連中心主義を維持、1994年4月に倒された。

 こうした日本側の姿勢に怒ったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得してナイ国防次官補に接触、そのナイは「東アジア戦略報告」を発表したわけだ。

 そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その10日後に警察庁の國松孝次長官は狙撃されている。8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。この段階で日本がアメリカの手先として中国と戦争する準備することは決まっていた。それを示したのがナイ・レポートである。






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最終更新日  2022.12.08 02:45:20



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