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核兵器廃絶の訴えに反対する人は少ないだろうが、現在、核戦争勃発の可能性はかつてなく高まっている。1962年10月のキューバ危機よりも危険な状態だという人もいる。それにもかかわらず、大多数の人は気にしていないようだ。「核兵器廃絶」は中身のない掛け声にすぎないと言われても仕方がないだろう。 2013年5月から16年5月までSACEUR(NATO軍作戦司令部の司令官)を務めたアメリカ空軍のフィリップ・ブリードラブ退役大将は2022年4月7日付け記事の中で、ウクライナにロシアが軍事介入した直後に「私たちは核兵器と第3次世界大戦をあまりにも心配したため、完全に抑止されてしまった」と語っている。核兵器と第3次世界大戦を気にせず、ロシアを攻撃しろということだろう。2022年4月9日、イギリスのボリス・ジョンソン首相はキエフへ乗り込み、ロシアとの停戦交渉を止めるように命令している。 アメリカには核兵器を脅しの道具に使った歴史がある。例えば、ドワイト・アイゼンハワーは1953年に大統領となった直後、泥沼化した朝鮮戦争から抜け出そうと考え、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。休戦は同年7月に実現した。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017) その後、アメリカは矛先をインドシナへ向けるのだが、そうした中、1958年8月から9月にかけて台湾海峡で軍事的な緊張が高まる。1971年にベトナム戦争に関する国防総省の秘密報告書を有力メディアへ流したダニエル・エルズバーグによると、1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた。 アイゼンハワー政権で副大統領を務めたリチャード・ニクソンは大統領になっていた1972年4月、北ベトナムを核攻撃してはどうかと国家安全保障補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーに語ったというのだが、キッシンジャーの側近だったロジャー・モリスによると、ニクソンは北ベトナムに対する核攻撃の計画を1969年10月から11月の期間に指示したとしている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017) アイゼンハワーが朝鮮戦争を終わらせる手法を見ていたニクソンは「凶人理論」の信者になり、核攻撃しかねないと思わせればアメリカ主導の和平に同意すると考えていたようだ。パキスタンの政治学者、エクバル・アーマドによると、北ベトナムの代表団と和平交渉している間にキッシンジャーは12回にわたって核攻撃すると脅したという。(前掲書) また、イスラエルのモシェ・ダヤン将軍は狂犬のように思わせなければならないと語ったが、その意味するところは同じである。ジョー・バイデンを担いでいるシオニストの一派、ネオコンも脅せば屈すると信じている。 ネオコンは1991年12月にソ連が消滅して以降、核兵器の使用にも前向きになった。彼らはアメリカが唯一の超大国になったと信じ、他国に配慮することなく好き勝手に振る舞えると考えたのである。 ロシアや中国は相当数の核兵器を保有しているが、それでも問題ないとアメリカの支配層は考えるようになったようだ。例えば、外交問題評議会(CFR)が発行している定期刊行物「フォーリン・アフェアーズ」の2006年3/4月号に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスの論文には、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカ軍の先制第1撃で破壊できるようになる日が近い、つまり核戦争で中露に勝てる日が近づいているとしているのだ。 彼らの論理によると、ソ連の消滅でアメリカは核兵器の分野で優位に立ち、近いうちにロシアや中国の長距離核兵器を先制攻撃で破壊できるようになるだろうというのだ。リーバーとプレスはロシアの衰退や中国の後進性を信じ、アメリカが技術面で優位にあるという前提で議論している。ブリードラブも同じように考えている。 バラク・オバマはアメリカ大統領に就任した後に「核兵器のない世界の平和と安全を求めるアメリカの決意」を表明、2009年4月にオバマ大統領はロシアの元大統領ドミトリ・メドベージェフ氏とともに「核のない世界を実現する」と誓約し、その直後にプラハで「核兵器のない世界の安全」を求めると演説しているが、口先だけで終わった。オバマはかつてないほど核兵器を増強することになる。 そもそも核兵器はソ連を破壊するため、イギリス主導で開始された。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づくプロジェクトが始まり、MAUD委員会が設立されている。アメリカでは1941年6月にフランクリン・ルーズベルト大統領がEO(行政命令)8807という大統領令を出し、OSRD(価格研究開発局)が設置された。 MAUD委員会のマーク・オリファントは1941年8月にアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会い、アメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。この年の10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前のことである。 マンハッタン計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(前掲書) そして1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州トリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功。それを受けてハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可。そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型を投下、その3日後には長崎へプルトニウム型を落としている。 日本は8月15日に「玉音放送」と呼ばれる天皇の声明が放送されたが、その半月後にグルーブス中将に対し、ローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。 ********************************************** お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.10.12 01:05:55
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