2015.08.29

32年前の8月31日から9月1日にかけて大韓航空機がソ連の領空を侵犯、その直後に米ソ開戦の危機

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 1983年8月31日18時26分(UTC。日本時間9月1日3時26分)にサハリン上空で大韓航空の旅客機KAL-007がソ連の戦闘機に撃墜されたと言われている。この事件を利用して西側のメディアはソ連批判の大キャンペーンを展開したが、真相が明らかになったとは到底言えない。

 この旅客機はニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から韓国の金浦空港へ向かう予定で、中継地のアンカレッジを13時(UTC、以下同じ)に離陸、10分も経たないうちに航路からそれはじめ、民間機の飛行が許されていない「バッファー・ゾーン」へ向かった。14時34分に管制官と思われる人物が「警告しなければならない」と口にしたことが記録されている(アメリカ政府は「聞こえない」と言い張っていた)。15時過ぎには「飛行禁止ゾーン」へ侵入したはずだ。

 NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のアラスカ航空指揮規則によると、飛行禁止空域に迷い込みそうな航空機を発見した場合はすぐに接触を試み、FAA(連邦航空局)へ連絡しなければならないと定められている。

 ところが、アメリカ軍は撃墜も予想される飛行禁止空域へ向かう民間機に対して何もアクションを起こしていない。アメリカ軍のスタッフが信じがたいほど怠慢だったのか、事前に飛行許可を受けていたのだろう。

 バッファー・ゾーンと飛行禁止ゾーンを横断した航空機を15時51分頃、ソ連防空軍の早期警戒管制レーダーが捕捉している。その時、航空機の目前にはカムチャツカが迫り、近くではアメリカ軍の戦略偵察機RC135が飛行していた。そこで航空機は大きくSの字を描いてからソ連の領空を侵犯、重要な軍事基地の上空を飛行する。領空に侵入する際、ソ連側は航空機を10分足らずの間、見失っている。18時頃にはソ連軍が複数の要撃機を発進させた。

 公表されたコックピットの会話を見ると、ソ連が戦闘機を緊急発進させた直後、旅客機のコックピットでは興味深い会話があった。

【18時4分】税関を通過するのは、かなり複雑なことになりそうだ。
【18時5分】まだ向かい風を受けている。


 18時11分にソ連防空軍の司令部は要撃機に対し、ロックオン・モードにセットするよう命令。つまり撃墜の準備を始めた。すると・・・

【18時11分】ドルから韓国の通貨にするのは大丈夫。

 当時、韓国ではウォンをドルに替える際には制限があり、韓国人のクルーならドルのまま持っているのが自然だろう。また、KAL-007の到着予定時刻に金浦空港で通貨の交換はできなかった。

 18時13分に要撃機は司令部に対し、ターゲットが呼びかけに応じないと報告、15分には司令部はターゲットと要撃機がスクリーンから消えたと発言した。そして17分、領空を侵犯したとして撃墜命令が出る。

 19分には地上から強制着陸させるようにという命令があり、要撃機はロックオンを解除し、警告のために銃撃する。21分にミサイルの発射が命令されるが、22分に再びスクリーン上から航空機が消えてしまう。

 18時23分に司令部は銃撃での破壊を命令するが、要撃機からミサイルを発射すると伝え、26分にターゲットを破壊した報告。その後、ターゲットは右へ螺旋を描きながら降下していると要撃機のパイロットは報告しているのだが、レーダーの記録では左へ旋回している。レーダーの記録が間違っているのか、パイロットが錯覚したのか、あるいはレーダーが記録していた航跡はパイロットが見ていた航空機のものではなかったということになるだろう。

 少なくとも記録上、空中で分解、あるいは海面に突入する様子を誰も目撃していないだけでなく、事実上、遺体や遺留品が見つかっていない。遺体はタカアシガニが食べたとする説もあるのだが、それなら骨が残っているはずで、説得力は全くない。ソ連が回収したとする証拠もない。

 1981年にロナルド・レーガンが大統領になってから、アメリカとソ連との間で軍事的な緊張が高まっていた。憲法の機能停止を目的としたCOGプロジェクトが秘密裏に始まり、ソ連を攻撃する口実に「民主化」を使うという「プロジェクト・デモクラシー」もスタートしているのだが、より直接的な軍事的挑発をレーガン政権は実行している。

 例えば、1982年10月1日からスウェーデンでは国籍不明の潜水艦が侵入したとして大騒動になっているが、潜水艦は捕獲されず、根拠が曖昧なままソ連の潜水艦という印象だけが広まった。ノルウェーの研究者、オラ・ツナンデルによると、西側の潜水艦だった可能性が高い。

 実は、10月8日にスウェーデンではアメリカに批判的だったオルオフ・パルメが首相として返り咲いている。潜水艦騒動はパルメの動きを縛ることになったが、それだけでなく、スウェーデン国民の意識も変化させている。つまり、1980年までソ連を脅威と考える人は国民の5〜10%に過ぎなかったのだが、事件後の83年には40%へ跳ね上がり、軍事予算の増額に賛成する国民も増える。1970年代には15〜20%が増額に賛成していただけだったが、事件後には約50%へ上昇しているのだ。(Ola Tunander, “The Secret War Against Sweden”, 2004)なお、パルメ首相は1986年2月28日、妻と映画を見終わって家に向かう途中、銃撃されて死亡している。

 1982年11月には中曽根康弘が内閣総理大臣に就任、翌年の1月にはアメリカを訪問している。その際、中曽根はワシントン・ポスト紙のインタビューを受け、「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母(実際は巨大空母だったようだが、本質的な違いはない)とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある四つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と挑発した。

 そして1983年の4月から5月にかけて、アメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で艦隊演習「フリーテックス83」を実施する。この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加、演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返し、米ソ両軍は一触即発の状態になったと言われている。(田中賀朗著『大韓航空007便事件の真相』三一書房、1997年)この演習を日本のマスコミは無視した。

 大韓航空機事件の直後、1983年11月にはNATO軍が軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていたのだが、これをソ連の情報機関KGBは「偽装演習」だと疑い、全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒している。





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最終更新日  2015.08.30 18:08:19