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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第六話 牙城クスコ(4)

moon therapy (銀河)

【 第六話 牙城クスコ(4) 】

インカ軍の敗走する姿に、モスコーソ司祭や巡察官アレッチェがどれほどに満悦気な表情を浮かべていたかは、もはや言うまでもない。

モスコーソはアレッチェの組織した「リマの褐色兵」をいたく気に入り、既に、この時点で、完全なる勝利を確信したほどであった。

モスコーソは、ひどく気に入った、その褐色兵の将に会うことを所望していた。

アレッチェは、褐色の討伐隊の将を執務室に呼んだ。

まもなく、逞しくも、非常に真っ直ぐな澄んだ目をしたインカ族の男が現われる。

その褐色の男は、この国最高の司祭モスコーソを前にして、すかさず跪いて深々と礼を払った。

モスコーソはえらく満足そうにキュッと目を細め、己の前に傅(かしず)いている凛々しい青銅色のインカ族の男に「うむ、うむ。」と幾度も頷いた。

「そちの働き、実に見事であった。

余はいたく感動したぞ。」

そのモスコーソの言葉に、褐色兵はまだ頭を深く垂れたまま、「身に余る御言葉、モスコーソ司祭様の御為であれば、この命惜しくはございませぬ。」と、深い感動を滲ませた声で応える。

モスコーソの満悦顔が、この上なくなったのは言うまでもない。

「インディオの中には、トゥパク・アマルのような悪魔のごとくの反逆者もいるかと思えば、そちのような、実に忠良なる臣民もいるのじゃな!インディオもまだ捨てたものではないらしい。」としみじみと語りながらも、モスコーソの中に、この眼前に傅く男がトゥパク・アマルだったら…――という密かな願望を伴った妄想がよぎっていく。

モスコーソの屋敷

一方、「身に余るお言葉、真に、わたくしにとりまして最上の日でございます。」と、未だ深く礼を払っているその褐色兵に、「そちの名は何と言う。顔を上げておくれ。」と、あの舐めるような視線になってモスコーソが言う。

司祭の言葉にすっかり恐縮している褐色兵に向かって、二人の様子を伺っていたアレッチェが「構わぬ。顔を上げて、おまえの名を告げよ。」と、淡々とした声で言う。

モスコーソも、あの瞳の見えぬほどに細めた目で、唇の端を不自然に吊り上げながらじっと褐色兵に絡みつくような視線を投げていた。

褐色兵は、やや躊躇(ためら)いがちに、ゆっくりと顔を上げる。

漆黒の巻き毛に縁取られた逞しくも端正な風貌に、やはり、あの純粋で真っ直ぐな瞳が非常に印象的な精彩を放っている。

モスコーソは、たいそう満足そうに目をキュッと細めたまま、幾度も頷いた。

「そなたは勇ましくも、まるで褐色の天使のごとくに澄み切った目をしておる。

名は何と申すか。」

「フィゲロアと申します。」と、深く礼を込めた、感動と興奮からやや上擦った声で恭しく応える。

すると、「フィゲロア殿…!!」と、あの駆け寄るがごとくの仕草で、モスコーソは跪いている褐色兵の前に自らも跪き、己の両腕で褐色兵の両肩を抱きかかえるような格好をした。

傍から見ているアレッチェには、そのモスコーソの態度のあまりに大袈裟で白々しい態度に、心の底で冷笑せずにはいられない。

しかしながら、当のフィゲロアは、モスコーソのその様子に深い驚きと感動を隠せぬ様子で、澄んだ瞳を大いに輝かせていた。

「フィゲロア殿、忠良なる神の御前の子羊よ、本当にそなただけが頼りじゃ。

この国の神聖なるキリスト教を悉く血と火で汚すあの謀反人から、この国を、そして、このか弱き牧者を守っておくれ。」

すがるような眼で弱々しい声を発するモスコーソに、フィゲロアは庇護するような頼もしい眼差しを向ける。

それから、深い誠意を込めた声で「この命のすべてを賭けて、司祭様を、そして、この国のキリスト教と平穏な秩序をお守りいたします。」と、誓詞を立てるがごとくに応えた。

すっかりご満悦も極まった様子でモスコーソが立ち去ると、改めて、アレッチェがフィゲロアに向き直った。

「確かに、おまえの働き、見事であった。」

アレッチェの言葉に、フィゲロアは再び恭しく礼を払った。

「だが、トゥパク・アマルを目前にしながら仕留められなかったとは、極めて残念だ。」と、ひどく冷ややかな声でアレッチェが言う。

そのアレッチェの言葉に、「申し訳ございませぬ。」と低く応えるフィゲロアの握り締めた拳は、悔恨のためであろう、わななくように震えだす。

「トゥパク・アマルを殺さず、生け捕りにするのだ。

反乱を完全に鎮圧するために、聞き出さねばならぬことが山ほどある。」

「はい。」と答えるフィゲロアの瞳に、憎悪を秘めた、激しい闘争的な炎が燃え上がった。

アレッチェは満足そうにその瞳の色を見ながら、「トゥパク・アマルに思うようにさせてはならぬ。あの男は、再び『インカ皇帝』として君臨し、独裁政治を敷こうとしている。おまえがそれを防ぐのだ。」と、いかにも緊迫した声で言う。

フィゲロアは「よく心得ております。」と、毅然とした声で応える。

アレッチェも頷き返し、それから、「下がって休め。」とその褐色兵を退室させた。

時代の窓 紅

一人執務室に残ったアレッチェは、既に夕闇に包まれつつある窓外に目を向けた。

この牙城クスコを、反乱軍から守り切れたことには、やはり深い安堵があった。

そして、「リマの褐色兵」が、予想以上に効果的であったことにも満足を覚えていた。

軍団の将、フィゲロアは、インカ族ではあるものの、首府リマというスペイン的気風の強い環境で生まれ育ち、裕福で進歩的な考え方を持つ貿易商の両親のもとで、幼少時から西洋的な教育を授けられて生育してきた。

彼の家系がインカ皇族ではなかったことも、彼を過去のインカ帝国への執着から解放するのを容易にした。

開国に積極的且つ進歩的なフィゲロアの父親はスペイン人に協力的であり、結果として、スペイン人役人からの覚えもめでたく、その生活は優遇されたものだった。

また、彼の両親は敬虔なカトリック教徒でもあり、この国最高の司祭であるモスコーソを深く信奉してもいた。

彼及び、彼の家族は、スペイン侵略後の新しい時代の中を巧みに泳いでくることができた極少数のインカ族の部類に属する者だったと言えるだろう。

そのようなフィゲロアにとって、現在の植民地政策は、必ずしも否定されるべきものとは映っていなかった。

西洋的な思想や文化から学ぶことの実に多いことも知っていた。

「暴政」と見える部分は、より進歩的で成熟した文化や政治を受け入れていく過渡期の、やむを得ぬ必要悪として認識してもいた。

そんなことよりも、今更『インカ皇帝』なるものの出現によって、彼から見れば、実に原始的で土着的な世界へ、しかも、独裁的な治世へと後戻りすることの方が、はるかに危惧されることであった。

そうしたフィゲロアの考え方は、スペイン側にとっては非常に都合のよいものであった。

しかも、フィゲロア自身の特性としてのその純粋性は、ある意味では、洗脳のされやすさでもあったのだ。

アレッチェが彼に目をつけ、利用価値を見出したのも、必然のことであったろう。

この不安定な植民地下で、こうした反乱の起こる可能性を十分に予測していたアレッチェは、フィゲロアのような環境のインカ族の子弟たちに秘密裏に軍事訓練を施してきた。

そして、その者たちの中でも、特に統率力と武勇に秀でていたのがこのフィゲロアだった。

結果、此度の将として白羽の矢を立てられるに至ったが、まさしくフィゲロアにとってもこのクスコ戦は、後に明らかになるように、アレッチェに目をつけられた時から宿命づけられていた彼自身の悲愴な運命のはじまりでもあったのだ。

罠(くもの巣)

なお、フィゲロアの元にインカ族の傭兵を組織するに当たって、アレッチェは強引にリマ界隈の貧困農民たちを参戦させたが、同族に刃を向けるという彼らの抵抗感を割り切らせるために、単に一定の報酬を保障するに留まらず、トゥパク・アマルの首に莫大な報奨金をかけていた。

トゥパク・アマルを生け捕りにした者には、なんと2万ペソもの大金を与えると、全軍の兵に、そして、国中に、広く確約し布告していた。

当時のその額は邦貨にすれば実に1千万円にも相当し、当時としては、それだけの金額があれば一生贅沢に暮らせるばかりか、子や孫の代までの生活を保障し得るほどの目を見張るような大金であった。

日々の一切れのパンにさえ苦心惨憺たる思いで生活をしていた極貧のインカ族の農民たちにとって、その金額は、その目を眩(くら)ませるに十分だったのだ。

このように、同族同士で斬り合いをさせるためには、それなりのコストをかける必要があることをアレッチェはよく認識していた。

そして、逆に、それだけ捻出すれば、同族同士でさえ殺し合うのだと…――所詮、人間などそのようなものなのだ、と、アレッチェは皮相な冷笑を浮かべながら、既に日の落ちた窓外の暗闇にじっと視線を投げた。



一方、クスコを逃れた山間部に張られたインカ軍の本営は、はじめての大いなる敗退に暗澹たる色を滲ませながら、夜闇の中に、灰色の影のようなその姿をボウッと浮き上がらせていた。

さらに、トゥパク・アマル及び側近たちの天幕の張られた界隈は、いつになく騒然とした雰囲気に包まれていた。

トゥパク・アマルが左肩から腕にかけて負った傷は、予想以上に重症だったのだ。

彼は意識こそ何とか保っていたものの、褐色の敵将、フィゲロアの刃によって深く切り込まれたその傷の痛みに、さすがに顔を歪めていた。

それでも、ひどく心配そうに見守る側近たちに、いつものように「大丈夫だ、案ずるな。」と言って笑みを返そうとする。

しかし、その様子が今日はいっそう痛々しく周囲には映った。

すぐにビルカパサを治療したのと同じ、あの従軍医が呼ばれ、治療に当たった。

有能なこのベテランの医師も、その傷の深さにかなり深刻な目になっている。

常軌を逸する激烈な痛みがあるのに相違なく、にもかかわらず、トゥパク・アマルに意識が保たれていることに、従軍医は密かに驚愕したほどだった。

「様子はどうであろうか?」と、まるで自分が重症を負っているかのごとくに苦渋な表情を浮かべたディエゴが、喰い入るように医師に問う。

従軍医は恭しく礼を払いながら、深刻な口調で答えた。

「傷は相当深く、決して楽観できる状態ではありません。

すぐに手術をしなければなりません。

傷口を縫い合わせねば。」

「手術…!!」

側近たちは、改めて固唾を呑んだ。

トゥパク・アマルも、微かに目を見開く。

従軍医は、寝台に横たわるトゥパク・アマルの顔の傍に、手術の合意を伺うように深く跪いた。

「トゥパク・アマル様…。」

従軍医の真剣な眼差しに、トゥパク・アマルは頷き返す。

「世話をかける。」

苦痛に耐えながらも、この従軍医の方に礼を払おうとするトゥパク・アマルの様子に、従軍医はいっそう深々と頭を垂れた。

それから、従軍医は急いでコカの葉を取り出し、トゥパク・アマルの方にそれを恭しく差し出した。

当地におけるコカは、「麻薬」というより、むしろ、鋭気を養い、苦痛を緩和する効用を有する珍重な薬用植物で、アンデスでは古来から愛用されてきた。

「トゥパク・アマル様、どうかそれをお噛みください。」と促しながらも、従軍医は心の中でじっと思案する。

まともな麻酔などまだ無いこの時代、トゥパク・アマルに未だ意識があることは、手術を進める上では逆に不都合であったのだ。

このままでは、術中に伴う苦痛を、直接的に感じ取ることになってしまうであろう。

前記のコカや、また、他にもキニーネやセネガなどの麻酔効果のある薬草を利用するとしても、甚大な苦痛は避けられまい…――と、そろそろ初老の年齢にさしかかるこの従軍医の眉間の皺は、今、いっそう深くなる。

従軍医は暫し思案に暮れた挙句、ゆっくり顔を上げた。

いちかばちか、あの娘の不思議な力を借りてみよう…――!

「急ぎ必要な道具を取りに行って参ります。」

そう言い残すと、従軍医は足早に本営の一隅に設けられた負傷兵の治療場に向かう。

moon fork lore red

負傷兵でごった返したその場所は、思わず嘔気を誘うほどの血肉と汚物の臭気で満たされていた。

負傷兵たちの苦痛に呻く悲痛な声が、辺り中に渦を巻いている。

今回の戦闘における惨状を、そのまま象徴しているかのようなあまりにむごたらしい情景であった。

その雑踏の中に足を踏み入れながら、従軍医は近くで看護に当たっていたインカ族の女性に声をかける。

「コイユールは、どこにいるかね?」

「コイユールなら、あちらに。」と、その女性が指差した方向を見やると、目を覆いたくなるような重症を負った兵の傍に、ガックリと肩を落として身を屈めるようにしているコイユールの姿があった。

従軍医がそちらに急いで歩み寄ると、銃弾に撃ち抜かれた傷口からとめどなく血を流した兵が、今まさに、その最後の息をひきとったところであった。

その兵の前で、治療のために彼女自身の両腕をもおびただしい真紅の血に染めたまま、深く首をうなだれている。

従軍医は、瞬間、声をかけることがはばかられたが、しかし、思い切ったように「コイユール。」と、呼びかける。

従軍医の声に僅かに顔を上げたコイユールは、その目に涙を滲ませ、悲嘆と悔しさとに満ちた、ひどく苦渋な表情である。

従軍医はその目の色に応えるように、彼もまた苦しげに瞳で頷き、それから、コイユールに真っ直ぐ向き直って言う。

「すぐにトゥパク・アマル様のお怪我の手術をしなければならないのだ。
手伝ってほしい。」

「ええっ…――!

トゥパク・アマル様が、手術?!」

「シッ…!

他の者に聞かれたら、へたに不安を煽ることになる。」

従軍医の言葉にコイユールはハッと口を押さえながらも、負傷兵が亡くなったばかりの冷めやらぬ衝撃に、新たな衝撃をぶち当てられたがごとくの悲痛と驚愕の表情で、身を震わせるようにしてその場に凍りついた。

「トゥパク・アマル様が、そんなに大変なお怪我をされたのですか?!

そんな…手術だなんて…!」

周囲に聞こえないように声を押し殺して言いながら、ただでさえ苦渋に満ちたコイユールの表情は、みるみる蒼白になっていく。

従軍医は、深く眉間に皺を寄せた深刻な表情で「そうなのだ。」と頷く。

「すぐに手術をしなければならない。

おまえに、手術中の痛みを和らげてほしいのだよ。」

コイユールは、思わず目を見開いた。

「でも…!!

そんな…手術中の痛みをとるなんて、私、やったことがありません…!」

「コイユール、そんなことを言っている場合ではないのだ。

たいそう酷いお怪我を負われているのに、トゥパク・アマル様は意識がおありになるのだ。

手術に伴う激痛は、鎮痛の薬草だけでは間に合わぬ。

確かに、おまえの力がどれほど効果があるかはわからぬが、何もせぬよりは、可能性に賭けてみたい。

とにかくやってみておくれ。」

従軍医は非常に真剣な表情で、コイユールの顔を見据えている。

コイユールは、固唾を呑んだ。

しかし、意を決したように頷く。

もはや迷っている時間も、選択の余地も無いのだ。

「わかりました…やってみます。」

従軍医も深く頷き返した。



静の森 (グレー)

それから、二人は大急ぎで手術の準備を整え、トゥパク・アマルの天幕に向かった。

天幕に入ると、やはりトゥパク・アマルは意識を保ったまま、自分の前に側近たちを集めて何やら話をしている。

「オルティゴーサ殿、そなたは全ての兵たちに軍の現状を伝え、十分にその労をねぎらっていただきたい。

決して、必要以上に不安を覚える必要はないと。

クスコを奪還できなかったことが、全ての終わりではない、と。

…そして、ディエゴ、そなたは、あのインカ族の敵将について情報を集めてほしい。

どんな些細なことでも何か知る者がないか、義勇兵たちも含め、広く聞き込みを行っておくれ。

そして、アンドレス、そなたは、兵たちの受けた被害状況を調べてきておくれ。

それから…。」

搾り出すような苦しげな声であったが、各側近たちに澱みなく指示を送っていく姿に従軍医は目を見張った。

全く、あれだけの傷を負っていて、意識があるだけでも信じがたいというのに。

(このおかたは、何という強靭な精神力をお持ちなのだろう…――。)

従軍医は、改めて、驚きと、密かな感動を抱きつつ、手術の準備を整えていく。

多分、このおかたなら術中の苦痛にも耐え抜かれるであろう、と、内心、算段しながら。

トゥパク・アマルの指示を受け、早速、各側近たちが天幕から散っていく。

アンドレスも立ち去りかけて、しかし、その時、ふと、コイユールの姿が目に入る。

にわかに高まる胸の鼓動を覚えながらも、彼女に気付かれぬよう距離を保ちつつ、そっとその横顔をうかがった。

コイユールは唇をギュッと結び、いつになく真剣な眼差しで手術の準備を進めている。

その目つきは、目前の大仕事への決意と緊張からか、ひどく険しくさえなっていた。

アンドレスの存在すら、今は全く目に入っていないようだった。

アンドレスには、従軍医が何故ここにコイユールを連れてきたのか、だいたい察することができた。

彼は己の胸に溢れ出す感情を抑えながら、この緊迫した現実へと自らの意識を懸命につなぎ止め、そして、今、コイユールのためにできる精一杯の気持ちを送ってみる。

(コイユール、頑張れ!!)

優しい微笑みをその目元に浮かべ、アンドレスは心の中で強くコイユールに呼びかけた。

不意にあたたかいものを感じて、ハッと振り返るコイユールの瞳の中に、天幕を出て行くアンドレスの後ろ姿が一瞬映った。

(アンドレス…!!)

瞬間、コイユールの胸にも切ないものがよぎる。

しかし、今はすぐに目前の重要な仕事に意識を戻した。

「それでは、トゥパク・アマル様、まずは、痛み止めの薬草をお飲みください。」

従軍医の指示に従い、トゥパク・アマルが薬草を口に含む。

護衛のために天幕に残ったビルカパサが、彼もまだ癒えぬサンガララ戦での傷口に痛々しい包帯を巻いていたのだが、施術のはじまることを確認すると素早く天幕を出て、その入り口の外側に立った。

「トゥパク・アマル様、これから手術をさせていただきますが、御腕を切り、縫うなどございます。

薬草も手術に伴う痛みをとる役に立つとは思いますが…、誠に恐れながら、それだけでは十分ではございません。

こちらに連れて参りました娘は、手を触れるだけで、薬も何も使わずに痛みを和らげるという不思議な力をもっております。

手術の手伝いをさせたいのですが、よろしゅうございますか?」

そう問いかけると、従軍医はトゥパク・アマルの方に恭しく頭を下げた。

コイユールも、それに合わせるように、深々と頭を下げる。

従軍医は畏(かしこ)まりながら、改めて問う。

「トゥパク・アマル様、施術中の痛みを和らげるために、こちらの娘にトゥパク・アマル様の御腕に触れさせてもよろしゅうございますか?」

従軍医の深刻な声に、トゥパク・アマルはゆっくりと首を傾け、コイユールの方に視線を向けた。

コイユールはあまりの緊張から、すっかり身を固めて顔を上げられない。

「そんなに緊張せずとも良い。」

トゥパク・アマルの静かな声に、コイユールは伏し目がちなまま、僅かに顔を上げた。

緊張の高まりからなのか、すっかり頬を上気させながら揺れるような瞳で己を見つめる彼女の方に、「よろしく頼む。」と真摯な眼差しで言うと、トゥパク・アマルはすぐに真っ直ぐ天井の方に向き直り、目を閉じた。

従軍医はいよいよ真剣な表情になって傷口を確かめてから、緊迫感の中にも医師らしい冷静さを保った眼差しで手術道具を手に取ると、コイユールに目で合図を送る。

コイユールは意を決した表情で医師の目に頷き返し、それから、トゥパク・アマルの寝台の脇に跪いたまま、その両手をそっとトゥパク・アマルの左腕の傷口の傍に添えた。

聖域(羽)

トゥパク・アマルの引き締った筋肉の感触が、コイユールの細い指先にはっきりと伝わってきて、彼女は一瞬はじかれたようにその指を浮かした。

コイユールは己の指先を呆然と見た。

まるで電流に打たれたように、その指先が、ひどく痺れているのを感じる。

コイユールの心臓が、早鐘のように、恐ろしく速く打ちはじめた。

自分の反応の大きさに、彼女自身が驚愕しながら、トゥパク・アマルにその様子が悟られてはいまいかと慌てて目をやる。

が、幸いにも、彼は手術の開始に向けて精神統一をするかのように、じっと固く瞼を閉じていた。

決して苦痛を表に出さぬよう己の感情と感覚を厳しく律する気迫も相まってか、はじめて直近で見るトゥパク・アマルのその横顔は、コイユールの瞳の中で、ブロンズの彫像のように完全な均整を保ち、研ぎ澄まされ、息を呑むほど美しかった。

(ああ…落ち着いて、落ち着いて…――!!)

必死で自分をなだめながら、コイユールは再び、トゥパク・アマルの腕にその指を添えた。

心臓の鼓動が張り裂けそうに鳴り響き、本来は温かくなければ施術にならぬ指先は、逆に冷え切り、震えている。

コイユールはトゥパク・アマルの腕からまた指を離すと、己の両手を擦り合わせて懸命に温めようとした。

その額には、じっとりと冷や汗が滲んでいく。

しかし、従軍医がトゥパク・アマルの腕を紐で固く縛って止血し、それから、傷口に術具の刃物を近づけていく様子を見た瞬間、彼女の心はまるで色が変わるように、サッと冷め、急速に平静に戻っていった。

(トゥパク・アマル様に、痛みを感じさせてはならない…!!)

コイユールの指が吸い寄せられるように、トゥパク・アマルの腕に添えられる。



彼女は瞳を閉じると、いつもの太陽と月のシンボルを脳裏に描き、それから、秘伝のマントラを心の中で3回唱えた。

じっと意識をトゥパク・アマルの傷口に集中させる。

すると、いつものように上空からサッと光が彼女の頭上に降りてきて、頭から首、腕を経由して、そのまま手の平から、光がトゥパク・アマルの中に流れ込んでいくのが感じられる。

コイユールは、自分の意識を、高く、高く、上げていった。

頭上に差し込んでくる光の源を追い求めるように、差し込む光を逆に辿りながら上へ上へと進んでいく。

moon therapy (銀河)

光の筋は上空の雲を越え、地球の成層圏を越え、やがて宇宙空間に飛び出して、さらに宇宙の果てまでも続いているかのようだった。

ふと見下ろすと、蒼く瑠璃色に輝く宝石のような地球が見える。

その美しさに恍惚と見入る彼女の意識はさらに高く昇り、眼下の地球もたちまち遠く吸い込まれるように小さくなって、やがて宇宙空間に霞んで見えなくなる。

コイユールは、さらに光の源を追って、宇宙のずっと果ての方までへも己の意識を飛ばしていった。

やがて、宇宙の遥か果ての方に、眩い巨大な塊のような光の源が見えてくる。

美しく、気高く、黄金色に輝くその光は、まるでインカのシンボル、太陽神の化身のようにさえ見える。

コイユールはその太陽のような光源の前で、深く跪き、祈りを送った。

(トゥパク・アマル様をお救いください。

トゥパク・アマル様の痛みを和らげてください。

トゥパク・アマル様に、たくさんの光をお与えください!

十分な光を、トゥパク・アマル様のもとに送ってください!!)

眩い光は、決して熱くはなく、ただ煌々と崇高な輝きを放っている。

コイユールは、己の意識を光源の前に飛ばし続けたまま、その神々しい光の前でひたすら祈った。

一方、トゥパク・アマルの天幕では、従軍医が黙々と治療を進めていた。

トゥパク・アマルも、固く瞼を閉じたまま手術の進行に身を委ねている。

時折、「うっ…。」と呻くことはあれども、一切、悲痛な声を上げることもなく、じっと従軍医の施術に耐えていた。

だが、その額に浮かぶ多量の発汗や閉じた瞼の震えから、表には出さずとも、実際には彼がどれほどの激しい痛みを感じているかは、この観察力の鋭い従軍医にはありありと推察できた。

それでも、幾分なりともコイユールの力が効を奏しているのか、トゥパク・アマル自身の精神統一による自己暗示によるものなのか、あるいは、その相乗効果のためなのか、ともかくも、トゥパク・アマルはその身を切られ、縫い合わされる所業に、意識を覚醒させたまま見事に耐え切っていたのだった。

従軍医は、その恐るべき強靭な精神力に深く感銘を覚えながら、一つのミスも犯さぬよう、慎重に施術を進めていった。



手術が開始されて、既に数時間が経過していた。

従軍医が、ふと横を見ると、コイユールは瞼を固く閉じ、トゥパク・アマルの腕に両手を添えたまま石のように微動だにせず、完全に意識がそこから離れた状態になっている。

ただ、その額からは、幾筋もの汗が流れ落ちていた。

トゥパク・アマルの傷口近くに添えられた彼女の指に従軍医がそっと触れてみると、まるで熱せられた鉄のごとくに、非常に熱くなっている。

彼は意識の無いコイユールの横顔に、静かに微笑みかけた。

(コイユール、頑張っておくれ!

もう、あと少しだ。)

それから、従軍医は施術の仕上げに入っていった。

一方、意識を遥か宇宙の彼方まで飛ばしていたコイユールは、そのインカの神のごとくの黄金の光源の前で、今もひたすら祈り続けいている。

そろそろ手術の終わりが近いことを直観した彼女は、いっそう深くその光源に頭を垂れた。

(お力をくださり、お見守りくださり、本当にありがとうございました。)

光に深く感謝の礼を払うと、コイユールはその光の前からゆっくり離れようとした。

その瞬間だった。

神々しいまでに黄金色の高貴な輝きを放っていたその光の源が、突如、赤黒く変色したかと思いきや、たちまち、溶岩が溶け出すように、ドロドロと液状に変容し、怒涛のごとく宇宙空間に流れ出したのだ。

コイユールがギョッとして立ち竦む目の前で、その赤黒い溶岩状の液体は、それまで白い星々が粛々と瞬いていた宇宙空間を、まるでその赤黒い溶岩の中に全てを呑みこんでしまうがごとくに、激烈な渦を巻きながら巨大化していくではないか――!!

white zone

「アアッ…これは…ああっ――!!!」

コイユールはひどい驚愕と共に、しかも、己の叫び声に耳を貫かれ、愕然としながらカッと目を見開いた。

そこは治療の行われていた天幕の中だった。

コイユールのその手はしっかりとトゥパク・アマルの腕に添えられてはいたが…――というよりも、トゥパク・アマルの腕を掴み、爪が食い込むほどにその指は硬直し、激しく力が入っていた。

彼女の額からは滝のように汗が流れ落ち、激しく肩を上下させるほどに息が上がっている。

暫し、己自身でも何か起こったのかわからず、コイユールは目をわななくように見開いたまま、焦点も定まらぬその瞳で呆然と宙を見据えた。

心臓が張り裂けぬばかりに、激しく鳴り響いている。

手術が終わり、丁度コイユールに声をかけようとしていた従軍医は、彼女のただならぬ様子に目を見張った。

そしてまた、トゥパク・アマルも、既にその目を開き、尋常ではない様子のコイユールを見た。

己に注がれる二人の視線に、コイユールは自分が本当に声を上げてしまったのだと悟った。

彼女は、いっそう蒼白になって、はじかれたようにトゥパク・アマルの腕から己の両手をはずした。

トゥパク・アマルの腕には、コイユールが思わず握り締めてしまった爪跡が残っている。

「ああ…申し訳ありません!!」

コイユールはさらに真っ青になって、その場に平伏した。

「コイユール、一体、どうしたのだ?」

従軍医の驚きと戸惑いの混ざった声に、コイユールは平伏したまま、後退(あとずさ)る。

そして、己が声まで上げてしまったことを激しく悔やんだ。

(い…今のは何?!…――予知夢?!

何にしても、あのような不吉なものを見てしまったなんて、このような大変な時に、トゥパク・アマル様に言えるはずがない…!!

なのに…それを悟られるようなこと…あってはならないのに…私は…!!)

コイユールは頭に血が上るのを覚えながら、僅かに頭を上げ、探るようにトゥパク・アマルの方に素早く視線を走らせた。

トゥパク・アマルの表情は相変わらず沈着そのものではあったが、何があったのだ、という目でこちらを見やっている。

コイユールの横顔を、冷や汗が流れた。

「な…何でもありません。」と無理に平静を装って応えるコイユールの声は、しかし、明らかに震えている。

一方、トゥパク・アマルは、「声を上げていた。何か見たのだね?偽らずに申してみよ。」と言いながら、鋭い目になって真っ直ぐにコイユールを見た。

トゥパク・アマルの、その貫くような視線に彼女は反射的に目をそらし、「いえ…何でもありません。」と繰り返す。

(本当のことなど、決して言えない…!!

ああ…どうしたらいい…?!)

コイユールは頭が真っ白になりながらも、必死で言葉を探す。

トゥパク・アマルはコイユールの顔を見据えたまま、静かな、しかし、有無を言わさぬ、どこか強制力を秘めた口調で再び言う。

「そなたは、不思議な力を持っているようだ。

今、ここでそなたが見たものは、そなたを通じて、天がわたしに伝えようとしていることかもしれぬ。

偽らずに言ってごらん。

たとえどんなに良からぬことでも。」

コイユールは、完全に引きつった表情で、トゥパク・アマルと床とを交互に見渡しながら、すっかり苦しそうな様子になっていた。

それでもトゥパク・アマルは、黙って、待っている。

ひどく重い沈黙の数分間が流れた。

見かねた従軍医が、諭すような口調でコイユールを促した。

「トゥパク・アマル様があのように仰っておられるのだ。

コイユール、申し上げなさい。」

「でも…!」と苦渋に顔を歪めるコイユールに、従軍医は重ねて言う。

「コイユール、おまえの先程のような様子だけを見せておいて、何も話さないで終わってしまったら、周りはもっと不安になるものだよ。」

「それは…。」

コイユールがもう一度、トゥパク・アマルの方に視線を走らせると、トゥパク・アマルは「その者の言う通りだ。」と低い声で言う。

ついに、彼女は意を決したように話しはじめた。

「恐れながら…先程見えたヴィジョンの中で…神々しく黄金色に輝く太陽のような光が、突然、赤黒い色に変わって…、その赤黒いものが溶岩のように宇宙に流れ出して、それから…、それから、その溶岩のようなものが…宇宙を呑みこんでしまいました…。」

搾り出すような擦れた声で言うと、コイユールは、己の口から呪いの言葉を吐き出したかのようなおぞましい感覚に襲われ、思わずその手で口を押さえた。

トゥパク・アマルは黙ったまま、天幕の天井に目をやった。

その横顔を、不安定に揺れる蝋燭の光が音もなく照らし出している。

従軍医も息を呑んだまま、今更ながら、コイユールに話しを促してしまったことを悔やむように引きつった表情になっている。

コイユールは自分の手足が震えてくるのを感じ、そのまま、床の上に崩れるようにへたりこんだ。

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そんなコイユールの様子に、トゥパク・アマルは再び彼女の方に視線を戻した。

そして、その切れ長の目元に、澄んだ柔らかな光を浮かべて、そっと微笑む。

「よく話してくれたね。」

「トゥパク・アマル様!!

これは…これは、私の勝手な幻覚のようなものです。

私は、未来を予知する力など、少しも持ってはおりません。

ですから、どうか、どうか、決してお気に留めることのないよう…!」

コイユールの必死な様子に、トゥパク・アマルは頷き返した。

「わかった、そうすることにいたそう。

だから、そなたも、そなたが見たものを、この後、決して誰にも言ってはいけないよ。」

コイユールは、涙の滲みかけたその目で、弱々しく頷いた。

これ以上コイユールに不吉なことを言わせてはまずい、とばかりに、従軍医が二人の間に割って入る。

そして、半ば諭し、半ば急(せ)かすように、コイユールを促した。

「では、そろそろ退かせて頂こう、さあ、コイユール。」

しかし、コイユールは逆に、トゥパク・アマルの寝台の方へと近づいた。

そして、寝台のすぐ脇に膝をつくと、殆ど泣き出すのではないかと思えるほどのその顔を、しかし、今、きっ、と真っ直ぐに上げて、きっぱりとした声で言う。

「トゥパク・アマル様!!

あの…!

私、どうしても申し上げておきたいことが…!!」

既に天井に目をやっていたトゥパク・アマルが、少し驚いたように、再びコイユールの方に視線を戻す。

そこには、険しいほどに思いつめた、必死の眼差しのコイユールの姿があった。

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「トゥパク・アマル様…私、子どもの頃、ビラコチャの神殿で、トゥパク・アマル様を、偶然、お見かけしたことがあるのです。」

従軍医が、何を言い出すのかとばかり、驚いた表情になって慌ててコイユールを制しかける。

が、トゥパク・アマルはそんな従軍医に、構わない、と目で合図を送ると、「そうか。では、そなたも、わたしと同じティンタ郡の出身なのだね。」と、変わらぬ静かな声で応えた。

「はい。

私は、トゥパク・アマル様が御領主様をされていたトゥンガスカの村で、農民の一人として生まれ育ちました。

トゥパク・アマル様…、私、あの神殿が大好きで…、幼い頃から、よく一人で訪れていたのです。

スペインに侵略されてからは、もう誰もいない神殿ですけれど、あそこに行くと、何か不思議に懐かしいような、心が呼び覚まされるような気持ちになれて…。

特に、夕陽に輝く神殿を見るのが、本当に好きでした。」

「そうか。

確かに、夕暮れ時のあの神殿は、実に美しい。」

トゥパク・アマルも、かの神殿の光景を思い描くように、どこか眩しそうな、懐かしそうな、遠くを見る目になった。

「はい。

それで、私、毎年、雪解けの季節になると、誰よりも早く、一番乗りで、あの神殿まで山を登っていたんです。

ずっと、幼い頃から…。

でも…、確か、あれは私が12歳になった年の春…、あの年はトゥパク・アマル様の方が私よりも早かった…。

いえ、もしかしたら、お会いできていなかっただけで、毎年、トゥパク・アマル様の方が、私よりも早く訪れていらしたのかもしれません。」

何を言いたいのか、ともかくも、まるで何かに憑かれたような、必死な、懸命な瞳の色をして、しかし、どこか懐かしく思いを馳せるように夢中で話すコイユールに、トゥパク・アマルは無言のまま、ゆっくり頷いた。

従軍医がハラハラと見守る中、コイユールはトゥパク・アマルの寝台の脇にしっかりと膝をついたまま動こうとしない。

コイユールは息を継ぐと、身を乗り出すようにしながら、再び話しはじめた。

その必死の瞳に、今、清らかな光が宿りはじめる。

「私たちみたいに、植民地の時代に生まれた者たちは、生まれた時から、スペイン人に意味もわからぬままに蔑まれ、質素な生活どころか本当に惨めな暮らしの連続で、挙句は、強制労働で家族の命まで奪われる者も後を絶たず…、それでも、そういうものなのかって…皆…私も…どこかで諦めておりました。

でも、私、あの神殿で、偶然、はじめてトゥパク・アマル様をお見かけしたあの時、本当に…、本当に、インカの皇帝様が生き返ったのかと思ったんです。

本当に…嬉しかった…!!

トゥパク・アマル様は、とても光り輝いて見えて、力に溢れていて、神々しくて…ああ…インカの皇帝様って、こんなふうだったんだって思いました。

…それで、…それから、あのビラコチャの神殿でお見かけしてほどなく、アンドレス様のお屋敷で、トゥパク・アマル様をまたお見かけした時にも、トゥパク・アマル様が…そして、アンドレス様も…とても堂々として、力強くて、それでいて、人々を思う愛に溢れていると感じて…本当に輝いて見えて、ああ、本来のインカの人々は、こんなふうなんだって、そう思えたらすごく嬉しくて…。

インカの人々の…私たちの祖先の魂の輝きを、お二人の中にそのまま見る思いがして…本来の私たちを取り戻したいって、本気で思うようになりました。

そのためなら、私も、精一杯に頑張れると…、戦えると思えたのです!

きっと…そんなふうに思っているのは、私だけではないはずです。

義勇兵たちは、皆…いえ、きっと兵として参戦していない国中の者たちだって、私のように末端の農民たちまでも、皆…!

このクスコ戦でも、トゥパク・アマル様は敵の褐色兵を討たなかったけれど…あの中には、私たち農民たちの…極貧の者ほど、その親類縁者や知人たちが、少なからずいたはずです…。

今日の戦乱の最中(さなか)に、敵方の中にかつて知人であった者、親族であった者を実際に見出して愕然とした兵たちもいたと聞きます。

この本隊の義勇兵たちの中には、そのことを仲間同士で責める者もおりますから、末端の農民兵たちは皆…、貧しい隅々にいる者ほど沈黙しておりますけれど…その心の内では、たとえ今は敵方に回されようとも、どんな一人一人をもトゥパク・アマル様がお見捨てにならなかったことを、どれほど深く感謝し、心の中で手を合わせておりますことか…。

そんなトゥパク・アマル様が皇帝様として導いてくださるからこそ、私たちは進む道を信じて、誇りを持って戦える…トゥパク・アマル様は、私たちインカの人間たちの魂の源…、私たちの皇帝様…皆の希望の光なのです!!

だから…だから、絶対に、いなくなってはいけないのです。

ですから…さっきの、私の見たものは…あんなものは…!!」

コイユールは堰切ったようにそこまで言うと、むせぶように言葉に詰まった。

気付かぬ間に、幾筋もの涙が頬を伝って流れ落ちていた。

いつしか、従軍医も、コイユールを支えるようにその肩をそっと押さえながら、横に跪いている。

トゥパク・アマルは静かに目を細めた。

「そなた…アンドレスの屋敷と申したか?」と言ってから、遠い記憶を手繰り寄せるような表情になって、「もしかして、まだアンドレスが子どもだった頃…あの会合の時に何度か来ていた、アンドレスの友だったという、あの娘か?」と微かに目を見開いた。

コイユールは両手で涙をぬぐいながら、「はい…。」と頷く。

「そうか…名は何と申したか。」

「…――コイユールと申します。」

「そうか、コイユール…。

そなたの思いは、よくわかった。」

そう言って僅かに頷くと、言葉を継いだ。

「そなた、アンドレスとは、今も友なのか?」

コイユールは、一瞬、言葉に詰まる。

この数年間は、実際には、言葉の一つも交わせてはいなかったし、アンドレスが自分を今も友と思っているかも定かではなかった。

しかし、コイユールにとっては、それは「友」としてなのか…――あるいは、もっと違う存在としてなのか、いずれにしても、アンドレスは、今も言葉に尽くせぬ大切な存在であることに変わりはなかった。

コイユールは、「はい。」と頷き、真摯な眼差しでトゥパク・アマルの瞳を見た。

「そうか…。」と、トゥパク・アマルは、再び、ゆっくり頷き、目を細める。

「あのアンドレスは、危なげに見えるほどに純粋で、真っ直ぐなやつだが、潜在的には将たる器を持っている。

だが、あの者は、なにぶんまだ若く、未熟な点が多い。

しかし、いずれは、わたしではなく、あの者たちの時代になるであろう。

そのような時、真にアンドレスを支えてやれる者たちが必要だ。

コイユール、そなたのインカを思う気持ちをそのままに、この後も、アンドレスを支え続けてやってほしい。」

「はい…トゥパク・アマル様…――。」

コイユールは感極まって、もはや止まらぬ涙に目鼻も分からなくなったような顔を両手で覆ったまま、幾度も幾度も頷いている。

トゥパク・アマルも、揺れる蝋燭の炎を映したその瞳で優しく頷き返した。

そんなトゥパク・アマルとコイユールの様子を見計らうようにして、従軍医が二人の間にそっと入る。

「さあ、トゥパク・アマル様、これ以上、お話をされてはお体に障ります。

コイユールも、さあ、もう…。」

トゥパク・アマルの体を気遣う従軍医の言葉に、コイユールは我に返ったように後ろに下がった。

最後にコイユールが寝台の上のトゥパク・アマルに視線を走らせた時、彼は既に真っ直ぐ上に向き直り、蝋燭の影の揺れる天井を黙って見つめていた。

従軍医とコイユールは深く頭を下げて礼を払うと、音を立てぬように天幕を抜ける。

そして、激しい疲労と興奮を引き摺りながらも、二人を待つ負傷兵たちの元へと深夜の道を引き返していった。



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第六話 牙城クスコ(5)をご覧ください。◆◇◆











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