第六話 牙城クスコ(9)【 第六話 牙城クスコ(9) 】 フランシスコの天幕入り口で、深々と平伏して迎え入れる護衛兵たちに、トゥパク・アマルは穏やかな眼差しで頷き返し、ゆっくりと天幕の内部に入っていく。 その後に続くアンドレスは、今しがたのトゥパク・アマルとのやりとりに、まだ大いに心を残しながら、しかし、今は目前のフランシスコのことに懸命に意識を戻そうとする。 そんな彼ではあったが、フランシスコの天幕入り口の垂れ布をくぐると、たちまち夢から醒めるように、にわかに緊張が高まっていく。 アンドレスは祈るような気持ちで、密かに固唾を呑んだ。 ビルカパサは、二人を護衛しながら、天幕の入り口付近に立った。 天幕の中では、フランシスコが寝台に身を横たえていたが、トゥパク・アマルの来訪に気付くと、慌ててその身を起こそうとする。 「フランシスコ殿、どうかそのまま。」 トゥパク・アマルは静かな声でそう言うと、寝台の傍に自ら跪き、寝台に横たわるフランシスコの目の高さに合わせた。 既にフランシスコは極度の緊張に達しており、油汗を滲ませた顔面を微かに震わせ、荒くなった呼吸のもとで、「トゥパク・アマル様、そのような御姿勢…勿体(もったい)のうございます。」と、必死で身を起こそうとする。 「よいのだ。 さあ、楽にして。」 そう言って、トゥパク・アマルは起き出そうとするフランシスコの腕を両手で緩やかに押さえた。 が、その瞬間、彼はそのまま、ふと何かを訝しむように僅かに首を傾け、その手でフランシスコの腕を暫し、じっと掴み続けた。 フランシスコは訳がわからぬままに、いっそうひどく怯えた眼でトゥパク・アマルを見て、それから、もう耐えられぬとばかりに、すがるような視線をアンドレスに投げた。 アンドレスも冷やりとして竦(すく)みかける足で、しかし、何とか寝台の傍に急ぎ歩み寄る。 「トゥパク・アマル様、何か…?」 探るようなアンドレスの声にトゥパク・アマルは応えず、今度は、素早い手つきでフランシスコの手首を押さえ脈を探った。 いっそう険しい眼差しになりながら、トゥパク・アマルは、そのままフランシスコの指先をじっと観察する。 その指先が、ひどく細かく震えている。 アンドレスの目にも、それが、単なる緊張による震えではないことが即座にわかった。 トゥパク・アマルは鋭くも思慮深い目になり、まるで医師のごとくに、フランシスコの胃の辺りに毛布の上から手を当てて、触診するかのように少し押した。 「痛ッ…!」 激しく顔を歪めたフランシスコの方に、にわかに深刻な眼差しになったトゥパク・アマルの視線が注がれる。 最後に、相手の呼吸の状態と息の臭いを確かめてから、トゥパク・アマルは、いつしか額に汗を滲ませて立ち竦んでいるアンドレスの方をはじめて振り返った。 トゥパク・アマルの眼差しは深刻ながらも冷静ではあったが、アンドレスと目が合った瞬間のその色は、非常に険しいものだった。 「アンドレス。 すぐに医師を呼ぶように、衛兵に告げてきなさい。」 「トゥパク・アマル様…?!」 すぐには動けぬアンドレスに、トゥパク・アマルはさらに険しい目を向ける。 「酒による中毒症状だ。 はやく医師を呼ぶのだ。 恐らく、急に酒を絶ったのであろう。 このままでは、逆に離脱症状が出て、危険だぞ。」 「!!」 アンドレスは息を呑んだ。 己の全身から、どっと汗が噴出すのが明らかにわかる。 しかし、ともかくも、彼は急ぎ衛兵のもとへ走り、医師を依頼した。 再び、彼が寝台の方に戻った時には、トゥパク・アマルが非常に案ずる眼差しでフランシスコを覗き込みながら、しかしながら、やや厳しい口調で、「これほどになるまでの酒をどこから手に入れたのだ?」と、無情とも取れる核心的な質問をしているところだった。 アンドレスは呼吸も忘れて、その場に凍りつく。 アンドレスは体中から完全に血の気が引いていくのを感じながら、必死でフォローの言葉を探した。 「トゥパク・アマル様、それは…!!」 アンドレスが口を挟むのを、トゥパク・アマルは鋭い眼差しで一瞥し、「そなたは黙っていなさい。」と一掃する。 当のフランシスコは、憔悴しきったあの蒼白な顔面さえ、今は、極度の恐怖と怯えと羞恥心のためであろうか、赤黒い色に変わって、その瞼も唇もすっかり震えていた。 アンドレスはもはや見ていられず、「トゥパク・アマル様、お許しください…!!全て俺が…。」と、トゥパク・アマルの跪く寝台の傍に崩れるように身を屈めた。 トゥパク・アマルの視線が、アンドレスに注がれる。 「何故、そなたが謝る?」 その時だった。 「アンドレス様の…。」 フランシスコの、搾り出すような、蚊のなくごとくの、か細い声が聞こえた。 トゥパク・アマルもアンドレスも、思わず息を詰めて、フランシスコの方を見下ろす。 もはや焦点も定まらぬ虚ろな目のまま、混濁した意識の中でフランシスコが続ける。 「アンドレス様の…天幕に、お酒がたくさんあって…。 アンドレス様は、わたしを元気づけてくださろうと、それを勧めてくださって…。 アンドレス様の天幕に行けばわかります。 …たくさんの酒瓶が…。」 トゥパク・アマルもアンドレスも、フランシスコの歪みきった表情を愕然と見つめた。 が、すぐに、トゥパク・アマルは冷静さを取り戻した目になると、小さく息を漏らした。 それから、ゆっくり視線をアンドレスに向けて、「そうなのか?」と、無機質な声で問う。 トゥパク・アマルの目の中に、アンドレスが完全に呆然と固まっている姿が映る。 アンドレスの脳裏には、あの昨晩までの憎悪に満ちたフランシスコの表情が甦っていた。 トゥパク・アマルに問いかけられているのさえ耳に入らぬかのように、アンドレスは、今、改めて、その揺れる瞳でじっと眼前のフランシスコを見つめた。 そこには、すっかり戦慄と震撼の眼で放心したフランシスコの姿がある。 あまりの展開に、むしろ、アンドレスの頭は不気味に冷静になっていく。 トゥパク・アマルに逃げ場を与えられぬ形で追求された極限状態から、思わず口をついて出てしまった言葉なのか? それとも、まさか…憎悪を抱く自分を、フランシスコは、はじめから、このような形ではめようと思っていたのか…――?! 否、もう、そのようなことはどうでもよい…!! アンドレスは、唇を噛み締めたまま、深く肩を落とし、天幕の地についたその拳を震わした。 (自分の浅はかな行動が…、逆に、フランシスコ殿をここまで最悪な事態に追い込んでしまった…――!!) 一方、トゥパク・アマルは、アンドレスとフランシスコと両者を見渡しながら、「アンドレス、どうなのだ?フランシスコ殿の申している通りなのか?」と問う。 が、その声は、早々に真実を見抜いているがごとくに、淡々としたものだった。 アンドレスは、もはや、これ以上の虚言の積み重ねが、眼前のトゥパク・アマルには全く通用しようもないことを明確に悟っていた。 アンドレスは、そのまま土下座をするがごとくに、トゥパク・アマルの前に平伏(ひれふ)した。 「トゥパク・アマル様、申し訳ございません!! 此度(こたび)のこと、全て、俺が仕組んだことでございます。」 それから、アンドレスはフランシスコの方にも、平伏して、頭を地につけた。 「フランシスコ殿、申し訳ございません。 俺の…俺の小賢(こざか)しい振る舞いで、あなた様をいっそう…。」 (…いっそう、このような形で、窮地に追い込むことになってしまった…――!!) あまりの深い申し訳なさと、激しい自責と情けなさと、裏切られた深い失望とで、アンドレスの声は詰まった。 一方、平伏したまま、その肩を震わせているアンドレスの方に向けられるトゥパク・アマルの視線は、いつになく厳しいものであった。 「全て、ありのままを話すのだ。」 もはや逃れようのない場まで追い込まれた心境のまま、アンドレスは、これまでのフランシスコとの一連の経過を話しはじめる。 いっそう厳しくなった表情でアンドレスの話を聞き終えたトゥパク・アマルは、しかし、小さく溜息をついた。 そして、考え深げな目になり、今や完全に絶望的な表情になっているフランシスコの方に、その身を屈めた。 「フランシスコ殿、そなたをこのような状態まで追い込んだのは、わたしなのだね。 許してほしい。」 トゥパク・アマルの態度に驚愕した眼を向けるフランシスコに、トゥパク・アマルは瞬間、頭を下げて礼を払い、それから、静かに微笑んだ。 「此度のことは、全て水に流そう。 だから、そなたも、気に病むことはない。 まずは、体の治療に専念するのです。」 まだ呆然と見つめるフランシスコの目の中で、トゥパク・アマルは改めて深く頷く。 「そのかわり、今後、一切、酒を口にしてはならぬ。 そして、体が回復したら、わたしの元で、再び、インカ軍のために力を貸してほしい。 戦場に出ずとも、フランシスコ殿、そなたにだからこそ任せられる重要な仕事は、山ほどあるのだから。」 そう言って、フランシスコの瞳を穏やかな目で見つめながら、「わかったね。」と、静かに念を押す。 フランシスコは、まだひどく呆然としたまま、しかし、トゥパク・アマルの眼差しに引き込まれるように頷いた。 トゥパク・アマルも、あの包み込むような横顔で頷き返す。 天幕の中の空気が、すっと和らいだものになったかのようだった。 しかしながら、もはや極限状態まで追い込まれ、醜態の全てを知られてしまったフランシスコの心境は、果たして、いかなるものであったろうか。 そのフランシスコの目に、トゥパク・アマルの穏やかな眼差しは、果たして、どのように映っていたのだろうか。 深い人間愛と正義心に貫かれ、常に己の信ずる光の方向に真っ直ぐ目を向けているトゥパク・アマルと、人間の闇の、そのまた闇の中へと埋没しつつあるフランシスコとの間に、もはや埋めきれぬ溝が生まれていたかもしれぬことを悟っていた者がいたとしたら…――それは、真に闇の中の苦悶を知るフランシスコのみであったかもしれない。 一方、トゥパク・アマルとフランシスコのやり取りに、驚きと深い感嘆とを宿した恍惚たる表情で見入っていたアンドレスの方に、今度はトゥパク・アマルの視線が注がれる。 その目は、再び、かなり厳しいものに変わっていた。 「アンドレス。」 トゥパク・アマルの声には、険しい色味が明確に宿っている。 アンドレスは、トゥパク・アマルの方向に真正面から向き直り、跪いたまま、深く頭を下げた。 その姿を見下ろすようにしながら、深く、低く響く声で、諭すようにトゥパク・アマルが言う。 「そなたは、まだ、あまりに未熟。 此度のこと、よく反省し、糧とせよ!」 アンドレスは、地につくほどに深く頭を下げた。 フランシスコの手前もあってか、トゥパク・アマルは言葉でこそ言いはしなかったが、その非常に厳しい眼差しは、――そなたは、虚言を重ね、表面上辺の修繕にとらわれ本質的解決を取りこぼし、果ては、その見識と経験の乏しさに対する無自覚と暗黙の驕(おご)りから、相手の命さえ危険に晒した、その責を何とする!!…――と、そう言わんとしているのだと感じられてならず、アンドレスは己を深く恥じ入り、その場に沈むほどに深く身を屈めた。 そんなアンドレスが顔を上げるのも待たず、トゥパク・アマルはすっと立ち上がると、天幕の出口に向かいはじめる。 そして、後姿のまま言う。 「言うまでもないが、此度のこと、決して、他言は無用。」 それから、入り口付近で警護に当たりながら、一連の事の成り行きを息詰めて見守っていたビルカパサにも視線を投げ、「そなたも、決して、他言無きように。医師、そして、事情を知る衛兵たちにも、その旨、しかと伝えよ。」と鋭い声で言うと、トゥパク・アマルはそのまま天幕を後にした。 その日の午後、盛夏の陽光の下、いつものようにインカ軍の精鋭の兵たちに武術指導をするアンドレスの姿を広場の端で見ながら、彼の朋友、ロレンソは僅かに首を傾けた。 やがて、その日の指導を終え、汗を拭きながら、アンドレスが広場の出口の方に向かっていく。 そんな彼の方に、ロレンソがゆっくり近づいた。 「アンドレス、何かあったのか?」 相変わらず勘の鋭い朋友の呼びかけに、アンドレスは躊躇(ためら)いがちに振り返る。 「ロレンソ…。」 「そなたの今日の動き、全く切れが無かったぞ。 何かあったのであろう。」 アンドレスは、全く、この友はいつも何もかもお見通しなのだから、と観念したように、軽く肩を竦めた。 そして、鞘に収めたサーベルの感触を確かめるように握りなおし、無意識のうちに深く溜息を漏らした。 「自分が情けなくてね…。」 やや皮相な笑みを浮かべるアンドレスを、ロレンソが少々心配そうな目になって覗き込む。 「そなたらしくもない。 一体、何があったのだ?」 「詳しくは言えないのだけれど、トゥパク・アマル様に叱られてしまった…。」 そして、アンドレスは再び深く息をついた。 ロレンソも、つられるように、小さく溜息をつく。 「そうか…。」 二人は、暫く黙ったまま、天幕への道を歩んだ。 インカ軍の兵たちが、歩み来る二人の前の道をさっと開け、深く頭を下げて礼を払っていく。 二人も、礼を返しながら歩む。 やがて、ロレンソがゆっくり口を開いた。 「アンドレス。 そなたには、トゥパク・アマル様もお目をかけているのだ。 だから、時に厳しい事も仰られるのであろう。」 真摯な声で笑顔を向ける友の前に、しかし、今のアンドレスには「目をかける」という言葉が妙に苦々しく感じられる。 「ロレンソ、俺は、君の目にも、トゥパク・アマル様に目をかけられているように映るのか?」 アンドレスの声は、明らかに上擦っている。 ロレンソは、アンドレスの反応に、やや訝(いぶか)しげに首を傾け、「そなたは、トゥパク・アマル様の右腕、ディエゴ様に続く、まさにトゥパク・アマル様の片腕にも等しき者。お目をかけられて当然ではないか。」と、何を今更(いまさら)、という口調で応じた。 アンドレスは、言葉を呑む。 それから、再び、ふっと溜息を漏らした。 「それなら尚の事、こんな俺では…、この先、インカのために、果たすべき役割を果たしていくことができるのだろうか。」 そして、思いつめたような目になる。 「トゥパク・アマル様は、凄いお方だ…。 俺には、とても、あんなふうにはなれない。」 思いのほか深刻な様子のアンドレスに、ロレンソの眼差しも、やや本気で心配そうな色になる。 「確かに、トゥパク・アマル様は凄いお人だ。 だが、アンドレス、そなたには、そなたの良さがある。 そなたは、そなたなりにやれば良いではないか。」 包み込むような眼差しで、己を一生懸命元気づけようとしている友の心を察し、アンドレスの心にあたたかなものが流れ込む。 そして、同時に、こんなふうにしてロレンソにまで心配をかけている己が、いっそう情けなく感じられてくる。 「ありがとう、ロレンソ。」 アンドレスは、吹っ切るようにして、ともかくも笑顔をつくった。 まだ、どこか力無い笑顔ではあったが、それでも、あの湧き立つような彼特有の華やかさは変わらず宿っている。 そんな朋友の笑顔に、ロレンソも目を細めて、いつもの大人びた微笑みを返した。 やがて、天幕への途上で、二人は負傷兵たちの治療場を通り過ぎていく。 治療場からは、相変わらず、兵たちの苦悶に喘ぐ呻き声が漏れていた。 盛夏の午後の陽光の下、いやがおうにも発せられる血や傷口の放つ臭気が、傍らを通るだけでも鼻をついてくる。 アンドレスは案じる眼差しになりながらも、その目は、無意識のうちに、どうしてもコイユールの姿を探してしまう。 一方、急に落ち着かぬ様子になったアンドレスの方に、ロレンソの、いつもの鋭い視線が注がれる。 「どうかしたのか? アンドレス。」 ロレンソが訝しげに問う。 「いや…、な、何でもないのだ。」と、全く、そのようには見えぬ態度とは裏腹な答えをするアンドレスを、しかし、とりあえず今はロレンソもそれ以上の追求はやめておく。 そして、話題を変えるようにロレンソが言った。 「最近、兵たちの噂で聞いたのだが、治療場で、不思議な力を使って治療に当たっている娘がいるらしい。 手を添えるだけで、体や心の痛みを和らげることができるとか…。 全く、いろいろな者がここには集まっているのだな。」 「えっ?!」 いきなり大きな声で過剰に反応したアンドレスの方に、ロレンソが驚いた目で向き直った。 アンドレスは、己の心臓が、まるで小動物のように小刻みに鼓動を打ちはじめるのを感じながら、しかし、必死で平静を装おうとする。 「そ、そうなのか…、噂にも、なっているのか…。」 アンドレスとしては無難に答えたつもりだったが、ロレンソはいっそう複雑な表情になって、「噂にもなっているのかって…、それでは、そなた、その娘のこと、以前から知っていたのか?」と、かえって追求の質問を投げてくる。 アンドレスは口を滑らせてしまったことに、思わず身を縮め、慌てて言い返した。 「い、いや…そ、そうだな。 聞いたことがあったような、無いような。 どのみち、そのようなこと、どうでも良いではないか!」 早口でかわそうとするアンドレスの横顔を覗きながら、ロレンソも一応は頷く。 「まあ、そうなのだが。 そなたの様子が、何だかおかしいから、つい…。」 「もうその話はやめよう!」と、アンドレスは視線を地面に落とし、急いで治療場の前を通り過ぎようと足を速めた。 明らかに頬が上気しているその横顔を、そっと見守る友の視線を感じながら。 アンドレスはその視線から逃れるように、下を向いたまま、さらに速度を上げた。 だが、次の瞬間だった。 すぐ目の前の方で、バサバサと何かが地面に落ちる音がした。 アンドレスが、はたと顔を上げると、ほんの4~5メートル先のところで、コイユールがその手に抱えていた薬草の束を地面に落としたまま立ち竦んでいる姿があった。 予想だにせぬ出会いに、アンドレスの心臓は止まりそうになる。 彼の手からも、その重厚なサーベルが、ドサリと鈍い音を立てて草の上に落ちた。 思いもかけず、路上で鉢合わせたコイユールの、今、完全にアンドレスに釘付けられている、その大きく見開かれた瞳は、この一瞬の間に既に涙ぐんでいるようにさえ見えた。 アンドレスの目も、完全にコイユールに釘付けられる。 (コイユール…!!) 己を見上げるコイユールの瞳は、「アンドレス!!」と、まるで叫んでいるかのようだった。 アンドレスは、もはや、その瞳から目を離すことができない。 手を伸ばせばすぐ触れられそうなほどの距離にいて、吸い込まれるようなコイユールの目の色は、何か、ただ私情だけではない何か、を必死に、激しく、訴えようとしているように思われた。 アンドレスは、それが何かを見極めようとするかのごとくに、思わずその身を乗り出した。 「コ…――。」 その名が、喉元まで出かかる。 しかし、数人のインカ軍の兵たちが、慌ててコイユールの方に走り寄ると、「こら、おまえ、何をしている!はやく道を開けなさい!!」と、散乱している薬草を掻き集めてコイユールを通路の端にどかせた。 兵たちが「申し訳ございませんでした!!」と、アンドレスとロレンソの方に、すっかり恐縮して深く頭を下げる。 コイユールも我に返って、兵たちの後ろに控え、深く頭を下げた。 その肩を微かに震わせながら。 (コイユール…!!) アンドレスは激しく後ろ髪を引かれる思いで、しかし、その場を徐々に離れていく。 再び、地に視線を落としながら重い足取りで歩む彼の顔面は、苦渋で歪んでいた。 (本当に、俺は、一体、何をしているのか…――!!) そんなアンドレスの後姿に、ロレンソは再び溜息をついた。 全く、己の半身にも等しいサーベルさえも地に落としたまま、立ち去ってしまうとは。 彼は俊敏な身のこなしで、アンドレスが拾い忘れたサーベルを、その逞しい褐色の腕でがっしりと拾い上げた。 それから、兵たちの後ろに隠れるようにしているコイユールの方に歩んでいった。 「そなた、名は何という。」 見知らぬ、いかにも身分の高そうな、トゥパク・アマルの側近風情の男からいきなり名を問い正され、コイユールの目には恐れの色が浮かび上がる。 しかし、すぐに、「コイユールと申します。失礼を深くお詫びいたします。」とはっきりした声で応え、深く頭を下げた。 「コイユール…。」 ロレンソは、小さく呟き、その大人びた目を微かに細める。 それから、周囲にいた兵たちに、「その娘に咎(とが)めの無きように。」と言い残して踵を返すと、アンドレスの落としたサーベルを手に、彼もまた天幕の方へと急ぎ引き返していった。 そして、アンドレスに追いつくと、「アンドレス、これを。」と、サーベルをそっと差し出す。 サーベルを落としたままにしてきた事実に初めて気付き、アンドレス自身も愕然として、僅かに震える手でそれを受け取った。 ロレンソは、そんな友の肩に思わず手を添える。 さすがに、ロレンソも言葉が無かったのだ。 まだ、確証は無いものの、もし、アンドレスの想う相手が先ほどの、全くいかにも貧しそうな平民の、というか、恐らく農民の、あの娘だったとしたら…――。 普通に考えたら、それを成就するのは、確かに、非常に難しいことに思われた。 アンドレスは目をそむけたまま、「ありがとう。」と力無く言うと、己の肩に添えられた友の手を静かにはずした。 そして、それ以上何も言わず、己の天幕の方へと戻っていった。 ロレンソの心にも、悲痛な感情が湧き起こる。 彼の脳裏に、先日、アンドレスの想い人について尋ねた際、己がアンドレスに伝えた言葉が甦ってきた。 『アンドレス、わたしたちは、どのような立場や境遇にあろうとも、本質は誰もが同じ一人の人間。 そうだろう?』 かつて、あのようにアンドレスに言いはしたが…、と、ロレンソは深く溜息をつき、それから難しい表情になった。 確かに、そうなのだが…しかし…――。 ロレンソは、再び深い息をつく。 此度の事情は、そう奇麗事は通らぬだろう。 何と言っても、アンドレスは、『インカ皇帝』に限りなく近しい身分の者なのだ――…!! (何ということか…!) さすがのロレンソも、暫し放心したまま、眉間に皺を寄せた。 何かに急(せ)かされるような気分で、そのままロレンソはマルセラの元に向かった。 (アンドレスと付き合いの長いマルセラ殿なら、その想い人のことについて、もっと何か知っているかもしれない…!) いつの間にか、辺りは、そろそろ日も傾きはじめている。 透明なオレンジ色の陽光に、インカ軍の陣営が包まれていく時間帯。 広大な野営地を吹き抜ける風も、だいぶ涼やかになってきた。 ロレンソがマルセラの居所のあるビルカパサの天幕近くまで行くと、少し広いスペースの空き地に精鋭の兵たちを集め、マルセラが何やら武術訓練らしきものを展開している。 何をしているのかと少し離れた位置から見ていると、どうやら、訓練を受けているのはマルセラの方で、敵の急所を突き、傷つけずに相手を気絶させる方法などの指南を専門兵から受けているようだった。 そんなマルセラらの訓練風景を見て、ロレンソは眉を顰(ひそ)めた。 なお、マルセラと共に、ビルカパサの連隊に属する複数の義勇兵たちも共に訓練を受けており、その中には、ロレンソにはまだ面識はなかったが、あの黒人青年ジェロニモの姿もあった。 一通りの訓練を終え、義勇兵たちにも解散を命じながら汗の処理をしているマルセラの方に、今、あのジェロニモが、何か意を決したような表情で近づこうとしていた。 しかし、それよりも早く、ロレンソの方がマルセラの元へ詰め寄った。 やむなくジェロニモは、一旦、草陰の方に身を隠した。 マルセラは汗を拭いながら、ロレンソの方に闊達な笑顔を向ける。 「これは、ロレンソ殿!」 「何の訓練をしているのです?」 鋭い目で問うロレンソに、マルセラは変わらぬ笑顔で応える。 「褐色兵たちを傷つけずに倒す方法を練習しているのですよ。 でも、どうしたのですか? ロレンソ殿こそ、こんなところまでお越しになるなんて。」 ロレンソはマルセラの質問には答えず、やや厳しい眼差しで言う。 「マルセラ殿、そなた、褐色兵のいる戦線に出るおつもりなのか?」 「もちろんです。 そのために、こうして訓練しているのですから。」 当然のことでしょう、とばかりにロレンソの目を見上げるマルセラに、ロレンソはいっそう険しい口調で言う。 「駄目です! そのような付け刃(やいば)の訓練で、あの褐色兵の軍団に対応できると思っているのですか?」 「付け刃?!」 さすがにマルセラも、ムッとした表情になる。 「戦場で敵に致命傷を与えずに倒すなど、そのような不殺の技は、到底、一朝一夕で体得できるようなものではない非常に難儀な技なのです。 そんな技を要求される戦場など、まるで狂気の沙汰だ…。 そのような危険な場所に、そなたが行ってはいけない。」 「狂気の沙汰って…それって、トゥパク・アマル様に盾突く御言葉にも取れますよ!!」 思わず気色ばんでマルセラが言う。 それでも、ロレンソは、真剣な眼差しでマルセラの瞳を見つめたまま、僅かに首を横に振る。 そして、噛み含めるように言った。 「いけません。 あの褐色兵との戦線には、そなたは出てはなりません。」 マルセラは、すっかり興奮して頬を上気させ、ついにロレンソに喰ってかかった。 「ロレンソ殿!! 私に指図をするおつもりですか?!」 ロレンソは深く息をついた。 そして、今度は、その大人びた眼差しに優しい光を宿して、じっとマルセラを見た。 その目の色に、マルセラは無意識に息を呑み、思わず険しくなったその表情を和らげる。 「そなたは女性なのです。 もっと御身を大切になさい。」 囁きかけるがごとくに深く静かに言うロレンソのその言葉に、マルセラは、明らかに頬を紅潮させた。 「なっ…何を、いきなり言うのです…!!」 すっかりドギマギしながら、マルセラは応戦しようとするが、それ以上、言葉が出ない。 そんなマルセラを慈しみを込めた眼差しで見下ろしながら、ロレンソも少々はにかんで、「そなたには、死んでほしくないから。」と小さな声で付け加えた。 いっそう赤面しながら絶句しているマルセラの方から、ロレンソも僅かに耳元を染めて視線をそらし、深呼吸をするかのように暮れなずむ夕空を仰いだ。 少しの沈黙が流れた後、再び、ロレンソが問う。 「話は変わるのだが…。」 そう言って、少々言葉を探しあぐねたように沈黙するロレンソに、マルセラも先ほどとは異なる冷静な眼差しに戻って、「何ですか?何でも言ってみてください。」と先を促す。 ロレンソは、軽く咳払いをしてから、やはり少々言いにくそうに、しかし、意を決したように切り出した。 「アンドレスが…想っているお方のことを、何かご存知ですか?」 「え…?!」 マルセラは、その瞳に戸惑いの色を浮かべながら、再び、その頬を上気させる。 そんな彼女の様子に、ロレンソも胸苦しさを覚えながら、しかし、切り出した以上、後へは引けぬという様子で畳み掛ける。 「まさか…アンドレスが好いている相手は、コイユールという、農民の娘ではあるまいね?」 そのロレンソの言葉に、マルセラの目は大きく見開かれた。 そのまま、瞳を揺らしながら喰い入るように己の瞳を見据えるマルセラの様子に、ロレンソは、「やはり、そうなのか。」と、溜息交じりに呟く。 マルセラも苦しげな眼差しになって、小さく頷く。 「はっきり聞いたことはないけれど、多分…。」 「何故、農民の娘と、アンドレスが、そのような間柄になっているのです?」 「間柄って言っても、あの二人の間には、まだ何も無いですよ。 この戦(いくさ)がはじまってからは、アンドレス様は、コイユールに声の一つもおかけにならないし…。」 そう言って、マルセラは吐息を漏らした。 「あの二人を見ていると、私も、何だか、やるせなくて…。」 「でも、何故、皇族中の皇族のアンドレスと、貧しい農民の娘が知り合いになったのです?」 「それは…あの二人がまだ幼い頃、コイユールの自然療法を、アンドレス様のお母上が受けていらして、それで知り合いになったの。 そう…、昔っから、あの二人は、本当に、とても仲が良かったから…。」 かつてを思い出すように遠い目をしながら語るマルセラの言葉に、ロレンソも、静かな面持ちで幾度も頷くように聞き入っていた。 恐らく、マルセラ自身もアンドレスに特別な感情を抱いているはずであったから、その気持ちを察すると、ロレンソの心はいっそう切なくなった。 そして、「そうだったのか…。」と、彼もまた、溜息をつく。 「それにしても、何という…。 一体、どうしたものか…。」 呟くように言うロレンソに、マルセラも深く頷いた。 「本当に…。」 二人はそれ以上言葉も無く、次第に藍色に変わりゆく夏の宵空を振り仰いだ。 一方、先ほどの訓練を終えた後、マルセラにコイユールとアンドレスの関係を思いきって聞き出そうと、ロレンソとの会話の終わるのを木陰で待っていたジェロニモは、図らずもその答えを盗み聞いてしまったことに、激しい胸の鼓動を感じながら立ち竦んでいた。 マルセラとロレンソがその場を去り行くまで、ジェロニモは息を殺したまま、木陰に身を潜めていた。 そして、二人の姿が完全に空き地から消えると、やっとその姿を表に現す。 (コイユールとアンドレス様が…! やはり、そういうことだったか…――!) そんなふうにして、アンドレスを取り巻く若者たちが、彼とコイユールとの関係にすっかり気付き、それぞれに思いを巡らせていることなど露とも知らぬ当のアンドレス本人は、その夜も、一人、いつもの素振りの練習場にいた。 しかし、その場に来てはみたものの、サーベルを片手に立ち尽くしたまま、もう何十分も、ただぼんやりと星空を見上げている。 そして、幾度となく、小さく溜息をつく。 そんな彼の様子など全く他所の様子の上空はスッキリと晴れやかに澄み渡り、その天空を埋め尽くすほどの無数の星々の中で、かの南十字星がひときわ高貴な光を放っている。 アンドレスは暫し南十字星を見つめて、そのエネルギーを全身に吸い込むように深々と息を吸い込むと、気を取り直したようにサーベルを構えた。 だが、その瞬間にも、コイユールのこと、フランシスコのこと、そして、思いもかけずトゥパク・アマルの口から飛び出した父のこと…――それらが、溢れ出すように彼の頭と心の中に氾濫し、欠片(かけら)も練習に向ける意識など残ってはいなかった。 アンドレスは観念したようにサーベルを鞘に収めると、そのまま、仰向けに草の上に身を投げ出した。 夜露に濡れた草のひんやりとした感触が、熱くなった頭と体に心地よい。 すぐ耳元では、虫の鳴く声がする。 郷愁を誘うその優しい音色にじっと聞き入っていると、幼い頃のコイユールの愛らしい姿が…そして、清らかな一人の女性として成長した現在の彼女の姿が、込み上げるように、どうしようもなく愛しく思い起こされてくる。 (俺は…コイユールのことを、こんなにも想っているんだ…――。) そんなふうに感じると無性に胸が熱く、何故だろうか、目頭さえもが熱くなってくる。 アンドレスは、思わず、その指先で目元をぬぐった。 その瞬間、不意に、昼間のトゥパク・アマルの言葉がアンドレスの耳元に響いてきた。 『アンドレス…こうして改めて見ると、そなたは、そなたの父にとても似てきたようだ。 そう…だな、姿も、その性格も。』 彼の胸はいっそう熱くなる。 (父上…!!) 彼の目元からは、いよいよ涙が溢れて頬を伝って流れた。 再び、指先でそれをぬぐうと、その澄んだ瞳で、天空に瞬く南十字星を見つめた。 まるで、亡き父の存在を、そこに探すかのように…。 無意識のうちに、アンドレスは、父に語りかける。 (父上…あなたは、スペインから渡ってきた生粋のスペイン人だったのに、インカ族の母上と一緒になられたのですよね…。 俺には、それは、あまりにも当たり前の事実で、今まで、そのことを深く考えたことなんて無かったけれど…でも、実際は、どうだったのですか? 父上…インカ族の母上と結婚するって…それって、祖国さえも捨てる覚悟でなくては、できないことだ…! それに、周りの反対は、どうだったんだろう? いや、それは、母上にとっても同じだったはずだ。 インカ族でありながら、しかも、王族でありながら…、侵略者として恨んでも恨みきれぬはずのスペイン人の父上と一緒になるなんて…――どんなに、「裏切り者」「不義」と罵られても何も言えぬほどのことだったはず! 父上にとっても、母上にとっても、周りの風当たりはどれほどに厳しかっただろうか…。 それでも、父上…あなたは、母上と…! そして、この俺が生まれた…。) アンドレスは込み上げるものを止められず、もはや涙の溢れるのに任せるしかなかった。 南十字星も、今の彼の視界の中では、水底の中に揺れるように霞んで見える。 そのまま、長いこと、アンドレスは草の上に横たわったまま、箍がはずれたように泣き続けた。 そんな彼の傍を、アンデスを渡る夜風が、その頬の涙をそっとぬぐいながら、優しく、静かに、吹き過ぎていった。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第六話 牙城クスコ(10)をご覧ください。◆◇◆ ジャンル別一覧
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