第六話 牙城クスコ(12)【 第六話 牙城クスコ(12) 】 かくして、トゥパク・アマルがスペイン軍への出頭を拒んだ今、両軍間に張り詰める緊張は、これまでに無く強まっていた。 この期に至っては、いよいよ次こそスペイン軍が決死の総攻撃を仕掛けてくるのは必定と思われた。 インカ側にとっても、スペイン側にとっても、もはや後の無い状況へと達しつつあったのである。 そのような日々の中でも、否、そのような時であるからこそ、アンドレスは、一日の任務を終えた深夜、人気(ひとけ)の無い高台の一隅での自主訓練を決して怠らなかった。 かつての武術指導の恩師アパサの教えを守り、今でも、アンドレスは日々の地道な基礎訓練を極力欠かさぬよう努めていた。 基本こそが奥義…――あの厳しい訓練の日々の中で幾度も聞かされた師の言葉は、確かに、幾多の実戦場面において、彼の命を様々な危機から救い、また、その力を発揮させる要(かなめ)となってきた。 (きっと、すぐすこまで、スペイン軍との、これまで以上の総決戦が迫っているに違いない!! そして、今度こそ…その決戦こそが、最終決着の場になるかもしれない…――!!) サーベルを振り切る一刀、一刀に、いつになく力がこもる。 彼の動きと共に、蒼い残光が幾度も宙を走っては、闇に溶けるように消えていく。 一通りの訓練を終えると、暫し、サーベルを己の目の高さに掲げ、その霊妙な光を確かめるようにじっと見つめた。 そして、そのまま、逞しい腕でガッシリとサーベルを支えながら、夜空に高々と捧げるように持ち上げる。 かのクスコ戦の前夜、迷いを捨て去り敵を討つ決意をしたあの時と同じように、南十字星の御前に誓詞を立てるがごとくに…――。 無数に降り注ぐ巨大な流星たちが、天空に輝くサーベルに幾筋もの閃光を煌かせ、消えていく。 その時だった。 不意に、背後の林の中で人の気配を感じた。 アンドレスは瞬時にサーベルを身構えると、その気配の方に鋭く声を放つ。 「誰だ?!」 まもなく、夜闇に溶け込む木々の間から、黒い影のような人物が姿を現した。 「何者だ?! そこへなおれ!!」 アンドレスは、暗闇の中に目をこらしながら、再び鋭く言い放つ。 黒い影は、その言葉通り、進み出る足を止めると、丁寧に地に跪いた。 そして、深く礼をする。 その様子に、不審を抱きつつも、アンドレスはサーベルを握る指から僅かに力を緩めた。 (インカ軍の兵か?! しかし、知らぬ気配……) 彼は跪く相手にゆっくりと、慎重に近づいていく。 それは見慣れぬ黒人の若い兵士であった。 「そなた、義勇兵の者か? 顔を上げよ。 何故、ここに来た? 俺に何か用なのか?」 矢継ぎ早に質問を投げてくるアンドレスに、跪いたままゆっくりと顔を上げたのは、あの黒人青年ジェロニモであった。 「アンドレス様、突然このような所まで押しかけて、申し訳ございません。 どうしても、アンドレス様と二人で話をしたかったので」 アンドレスは目を見開く。 「俺と二人で話を?」 全く面識の無い黒人の義勇兵から二人で話したかったと言われても、アンドレスはまるで狐につままれたようで、さっぱり訳が分らなかった。 「何のことだ? 人違いでは? 俺は君に会ったこともないと思うのだが…」 困惑しつつも、さすがにアンドレスは、相手が誰であろうと話しを聞く耳は持っている。 彼はサーベルを鞘に収めると、その黒人兵の近くまで歩み寄り、「何の話だ?話すがいい」と、言葉を選びながら低い声で問う。 「恐れながら…」とジェロニモは今一度深く礼を払うと、跪いたまま顔を上げ、真っ直ぐ貫くような瞳でアンドレスを見た。 「コイユールのことでございます」 「!!」 いきなりコイユールのことを切り出され、見知らぬ義勇兵の前にもかかわらず、不覚にもアンドレスはその場に硬直した。 一方、ジェロニモは、相手に混乱を招かぬよう、丁寧に説明をしていく。 「アンドレス様、突然、このようなことを申し上げ、驚かれているかと思いますが…わたしは、ビルカパサ様の連隊にコイユールと共に参戦している義勇兵です。 以前、インカ軍に参戦するために、スペイン人の元から脱走を図った時、コイユールには助けられたことがあって…、それ以来、友として親しくさせて頂いております」 アンドレスは固唾を呑んだまま、じっと話に聞き入った。 にわかに、その胸の動悸が速まっていく。 その足元で、ジェロニモは真摯な瞳を向けながら、恐らく眼前の若い将は自分よりも幾らか年下かとは思えたが、さすがにトゥパク・アマルの側近中の側近である、このアンドレスの傍で緊張を滲ませてはいた。 しかし、意を決した決然とした口調で続ける。 「アンドレス様は、何故、コイユールにお声のひとつもおかけにならないのですか? コイユールが…どれほど、アンドレス様の身を案じて…というか、どれほどアンドレス様を深く慕っているか、よく知っておられるはずなのに!!」 「…――!!」 アンドレスは息を呑んだまま、その瞳を大きく揺らしはじめる。 それと共に、まさか、こんな形で、見も知らぬ黒人兵から、突然、己の心に秘めていた核心部分に土足で踏み込まれようとは!!…――アンドレスのその表情には、驚愕と共に憤怒の色さえも浮かび上がった。 「お…おまえには、関係の無いことであろう!!」 思わず、アンドレスの語気が荒くなる。 「アンドレス様、誤魔化さずにお応えください。 何故なのです? 何故、これほどに長い間、コイユールを放っておくのですか? コイユールが、貧しい農民の娘だからですか?! それとも、トゥパク・アマル様の目を恐れているのですか?!」 その瞬間、アンドレスのサーベルの剣先が、ピタリとジェロニモの喉下に突き付けられた。 「おまえ…さすがに、無礼ではないのか? 言葉に気をつけろ……」 氷のような声で、アンドレスが言う。 さすがのジェロニモも、ビクリと身を固める。 アンドレスはサーベルをその位置に保ったまま、自らもその黒人兵の前に跪き、同じ目線になった。 そして、唸るように問う。 「名は何と言う?」 「ジェロニモ…」 「ジェロニモ…君こそ、何故、ここまでする?…――コイユールのことを、好きなのか?」 「アンドレス様、誤魔化さず、きちんと俺の質問に応えてください。 俺にとって、コイユールは大切な友です」 そう応えつつも、ジェロニモの胸の奥底は、にわかに疼く。 だが、彼は、いっそう決然とした眼差しを、その黒い野性的な横顔に湛えて続けた。 「友として、俺は、これ以上、コイユールが苦しむ姿を見てはいられない…!!」 相手の気迫にアンドレスがやや気圧されている間にも、ジェロニモはさらに畳み掛けるように続ける。 「それに、コイユールのことは別としても、アンドレス様のお考えを知りたいのです」 「コイユールのことを別としても…俺の考えを…?!」 剣先を当てられたまま、ジェロニモは真剣な目で頷く。 「俺たち黒人は、もともとインカの人間じゃあない。 故郷はアフリカの大地…。 縁あって、こうしてインカのために戦う運命とはなりましたが…。 この先、この命、果たして、本当にインカのために投げ出すに値するのか…今、俺は迷っています。 これからの戦いは、今まで以上の修羅場になるのでありましょう。 完全に命を捨てる覚悟が無ければ、もはや、ここには留まれない。 トゥパク・アマル様は黒人奴隷解放令を出してくださった。 だから、そのご恩には報いたいが…。 だが、これからはトゥパク・アマル様の片腕でもあり、若き将たるアンドレス様の時代でありましょう。 果たして、ついていくに値するお方なのか…俺にはわからなくなってきた。 もしコイユールのことを大切に思われているのなら、たった一人の女性も幸せにできず、いや…、心を深く傷つけさえして、それで国全体を幸福にできるものなのか? ましてや、身分や、上の者の目を気にするようなお方なら、論外です。 これは…恐らく、黒人の兵たち、皆の思いでもありましょう」 「…――!」 アンドレスは唇を噛み締めながらも、その目は次第に思慮深い色を湛えはじめる。 「アンドレス様、どうなのですか? それとも、俺が、たかが黒人の義勇兵だから、と、軽んじて、お応えせずに逃げますか?」 「逃げる?」 アンドレスは鋭い視線を向けた。 「ジェロニモ、君は、ずいぶんハッキリ物を言うな。 こんな無謀なことをして…。 いや…危険な橋を渡る勇気があると言うべきか」 ここまできては、アンドレスも思わず、苦笑せざるを得ない。 彼は、暫し、じっと息を詰めたままジェロニモを真正面から見据えた。 そして、意を決したように語りはじめる。 「俺は…コイユールを愛している…――」 アンドレスの視線が、ふっと遠くなる。 「愛しているからこそ、コイユールと身近に接するのが怖かった。 コイユールは…俺の心を、あまりに和ませ、安らげてしまう…。 この戦闘に緊張感をもって集中せねばならぬ時に、そんなコイユールの存在は、俺には怖かった」 そう言ってアンドレスは、不意に目を伏せた。 その瞼が微かに震える。 「俺は…怖かった。 一度、身近に接したら、コイユールのことで頭が占められてしまいそうで…。 インカのために向けるべき自分の心を、全て彼女に捧げてしまいそうで…ギリギリに保っているものが崩れてしまいそうで…。 将の一人として、戦闘と殺戮に手を染めなければならぬ時に、そんなこと、許されまい…?」 アンドレスはそう言って、震わせていた瞼をゆっくり上げた。 「アンドレス様…」 ジェロニモが、どこか同情すら漂わせたような、しかし、それ以上に険しさを孕んだ声で言う。 「それでは…アンドレス様は、コイユールよりも、ご自身のことを大事にされてきた…ということですか?」 「!!」 ぐっと言葉に詰まるアンドレスは、ジェロニモにも増して険しい形相になっていく。 だがそれは、恐らく、己に刺し貫くような視線を向けている眼前の黒人兵への怒りなどでは、もはや無く、避けていた鏡をいきなり突き付けられたような、そんな思いに憑かれたためであった。 長い沈黙の後、ジェロニモの目の中で、どこか、その姿さえも小さくなってしまったようなアンドレスが、ふっと小さく息をつき、そして、皮相に笑った。 「は…はは…確かに、君の言う通りだな…。 俺は、自分の保身のために……」 「アンドレス様…」 ジェロニモの目の中で、もはや皮相ささえも保てぬかのように、アンドレスの表情からは感情が消え、やがて苦悶の色へと変っていく。 険しいほどに真剣な眼差しで、じっと見据えるジェロニモの向こうに、まるでコイユールの姿を写し取るかのように、あたかも告白か懺悔をするかのように、アンドレスが再び話しはじめた。 「だが…言わせてくれ…。 決して、コイユールが農民の娘だからとか、トゥパク・アマル様の目を恐れて、ということではなかった。 トゥパク・アマル様は、この国の未来を文字通り背負っておられる。 俺は、トゥパク・アマル様のその姿に深い敬意を持っているし、あのお方のお考え、為されように賛同している。 だから、最大限、お力添えをしたいと思っている。 だが…だからといって、トゥパク・アマル様を恐れているのとは違う。 それに、俺は、身分で人を差別などしない。 農民だろうと、皇族だろうと、同じ人間に違いない。 黒人だろうが、白人だろうが、インカ族だろうが、どれも、本質は同じ人間だ。 何も違いはしない。 そんなことで、俺は、人を区切って見てはいない。 だから、今だって、俺は『スペイン人』と戦っているとは思っていない。 あの者たち…あの役人たちの、暴政と戦っている…そう思っている。 もっと言えば、俺は、人間だけを特別だと思っているわけでもない。 人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、この大地と天空の、まったく等しき位置にある住人だと思っている。 多分、アフリカの大地を今も愛し続ける君の心と同じようにね…」 ジェロニモに添えられていた剣先は、いつしか、すっかり地に下ろされ、今は深く肩を落としているアンドレスの姿は、本当に懺悔でもしているかのようにジェロニモの目には映る。 一方、そんなアンドレスの前で、ジェロニモは先刻までの険しさをふっと解き放ち、あのいつもの親しみ深い笑顔で、はにかんだ。 「アンドレス様! もう充分です。 お気持ち、よくわかりました」 「!」 アンドレスが驚いたように顔を上げる。 「アンドレス様、こんな一介の義勇兵の俺に、そこまでお話しくださるとは、俺の方こそ恐縮します。 本来なら、あなた様のようなご身分の方に、これほどまでのことを言い放った俺は、手打ちにされてもおかしくないはず」 「ジェロニモ…」 「それに、もう過ぎたことです。 俺は、コイユールが、これから幸せになってくれれば、それでいい。 だから、アンドレス様…――!」 そう言ってジェロニモは、再び、その野性的な横顔に力を宿して、きっぱりとアンドレスを真正面から見据えた。 アンドレスは己の心の中で凍りついていたものが熱せられて溶け出すような激しい感覚を覚えつつ、且つまた、えもいわれぬ切ない感情に憑かれていた。 「ジェロニモ…もしや…君も、コイユールのことを……」 「アンドレス様! それ以上は…――」 ジェロニモの鋭い声に、アンドレスは僅かに後方に身を退(ひ)いた。 「アンドレス様、誤解をしないでください。 コイユールは、俺にとって大切な友です」 「ジェロニモ…」 「そんなことより、アンドレス様…俺の言いたいことを察してください。 大丈夫ですって! アンドレス様なら、コイユールと正面切って会われたからといって、決してご自分を見失うことなどありませんよ。 俺が保障します!!」 そう言って、ジェロニモはバシッと勢い良く己の胸を叩いて、それから、あの茶目っ気のある笑顔をニッと見せた。 アンドレスの胸は、再び、ぐっと切ない感情で詰まる。 同じ一人の女性を想う者として、いかにこうしたことには疎いところのあるアンドレスとはいえ、ジェロニモの気持ちは、ここまでくれば手に取るように汲み取れる。 (ジェロニモ…君という人は……) アンドレスは、瞬間、目を伏せて、溢れるように込み上げる様々な感情を呑み込んだ。 そして、吹っ切るようにして目を見開き、ジェロニモに向かって瞳で深く礼を払うと、心を込めて微笑んだ。 「はは…君が保障してくれるのか? それは心強いな」 そんなアンドレスに、今度はジェロニモの目が惹きつけられる。 周囲の空気の色さえ一変させて輝かせてしまうような、そんな光を放つアンドレスの笑顔に直近で触れて、ジェロニモは思わず吐息を漏らした。 (コイユールが惹かれるのも、さもありなん…――か) ジェロニモは、己の心の奥底に未(いま)だ寂しく疼くものの存在を密かに感じながらも、それ以上に何か深く腑に落ちる感覚を覚えて、アンドレスに向かって勢い良く頷いた。 「俺は、アンドレス様とコイユールのためなら、何肌でも脱ぎましょう!!」 そう言って、誠実な瞳で真っ直ぐにアンドレスを見つめ、それから、改めて深く跪き、恭順の礼を払った。 「ジェロニモ…!」 同様に誠意を込めた眼差しで見つめるアンドレスの方に再び顔を上げたジェロニモは、その艶やかな黒い肌に、今度はあの親しげな笑みをニンマリと湛えて悪戯っぽく言った。 「それに…マルセラ様も、ええと…ロレンソ様でしたっけ、若いトゥパク・アマル様の側近のかたですが…あのお二人も、アンドレス様とコイユールのことでは、すっかり気を揉んでおられましたヨ!」 「…――えっ!!」 アンドレスは、カァッと顔を火照らせた。 「なっ…マルセラとロレンソが…?! あの二人…俺がコイユールをって…き…気付いていたのか?!」 アンドレスの表裏の無いそのままの反応に、ジェロニモは思わず吹き出し、ははは、と豪快に笑った。 「そうそう!! あまり皆に心配をかけてはいけませんって。 もうまだるっこしいことは止めて、想い合っている者同士は一緒にならないと、ね。 今は、明日の命もわからないんですから」 そう言うジェロニモの口調は茶化してはいたが、その目の色は、相変わらず誠意溢れる色であった。 アンドレスも、再び誠意を込めた瞳で頷く。 「君に会えて、嬉しいよ、ジェロニモ」 「俺もですよ。 アンドレス様」 それから、二人は身分も、人種も、全くその違いなど超えて、しっかりと手を結び合った。 果たして、アンドレスの中で心の塊がやっと氷解しはじめたとき、しかしながら、インカ軍の若き将たる彼の行く手には、はやくも新たな試練が待っていた。 ジェロニモと語り終えて自分の天幕に戻ったアンドレスは、そのまま慌しくトゥパク・アマルの天幕に呼び出された。 急いで参じたトゥパク・アマルの天幕の前では、火の粉を上げて燃え上がる松明(たいまつ)が、秋の夜空を音も無く焦がしている。 先刻のジェロニモとの対話の余韻を反芻する間も無く、アンドレスの横顔は、再び、険しい武人のそれへと変っていく。 (トゥパク・アマル様が、こんな深夜に側近を直々に呼び出すなど、めったにないこと。 何か、特別なご用件に違いない…!) 彼は心の中で、静かな覚悟を決める。 トゥパク・アマルの天幕周辺では、これまでにも増して厳重に警備態勢を敷く衛兵たちが、来訪したアンドレスに深く礼を払い、その入り口を開いた。 アンドレスも衛兵に礼を返し、それから「失礼いたします」と内部に声をかける。 天幕の奥から、「入りなさい」と、トゥパク・アマルの低く響く声がする。 やや緊張した面持ちで、アンドレスが中に足を踏み入れる。 トゥパク・アマルは手招きして、アンドレスを己の傍にいざない、座らせた。 それから、暫し、じっとアンドレスに見入った。 それは静かな、包み込むような、まるで、父が息子を見るがごとくの眼差しであり、且つまた、アンドレスの目の中で、トゥパク・アマルのその瞳は、何か深い感慨を帯びているようにさえ映る。 吸い込まれそうなトゥパク・アマルの眼差しに、アンドレスは微かな恍惚と眩暈のような感覚を抱く。 彼は、瞬間、眩しさに目を瞬いた。 そして、慌てて己を立て直すようにして、アンドレスが問う。 「トゥパク・アマル様、ご用件とはなんですか?」 トゥパク・アマルはゆっくり頷き、総指揮官としての厳然たる面持ちに戻っていく。 そして、神託を下すがごとくに、厳かに言った。 「アンドレス。 そなたには、これより二万の軍勢を率いて、アパサ殿を援護するため、ラ・プラタ副王領に向かってもらいたい」 「アパサ殿のもとに?! ここを離れて、ラ・プラタ副王領に…――!!」 己を見上げ、その目を見開くアンドレスに、トゥパク・アマルが深く頷く。 「ラ・プラタ副王領のスペイン軍が、フロレスという総指揮官のもと、あのアパサ殿さえも圧倒しはじめているのだ」 トゥパク・アマルの目が、鋭く、険しくなった。 そして、熱を帯びた切れ長の目元をすっと細め、改めて、真っ直ぐにアンドレスを見下ろす。 「側近たちの中で、あのアパサ殿と最も心を通じ合わすことのできるのは、アンドレス、そなたしかあるまい。 かつて、アパサ殿がそなたを戦士として育ててくれた恩を、今こそ、存分に返してきなさい」 そう言って、トゥパク・アマルは厳然とした表情のまま、静かな微笑みをつくった。 一方、アンドレスは、即座には如何様(いかよう)にも反応できず、くっきりと大きくその目を見開いたまま、呼吸さえも忘れたように息を呑んでいる。 (アパサ殿の元へ…俺が、二万もの軍勢を率いて…! これまでの分遣隊とは、まるで桁が違う…!! 本当に…俺に、大軍の将を任せようとしておらるのだ…このトゥパク・アマル様が…!!) 大任を委ねられた恍惚と興奮で、アンドレスの全身に武者震いが走った。 彼は頬を紅潮させつつ、だが、一方で、…――心の奥底で激しく痛むものがある。 (だけど…この本隊を去る…ここを離れるってことは……!!) にわかに様々な思いが、その胸中に飛来する。 アンドレスは、息を詰めた。 いかに当本隊が大軍勢を率いているとはいえ、己が二万もの兵を率いて遠方に去っても良いものなのか?…――間もなく、ほぼ確実に、スペイン軍との総決戦が控えているというのに?!…と、彼の理性は懸命に状況を分析する。 その一方で、それら理性とは全く別の次元で、先ほど出会った黒人兵の姿が、そして、コイユールの面影が、彼の脳裏をかすめていった。 しかし、兎も角も、アンドレスはトゥパク・アマルの前に深く恭順の礼を払った。 そして、「ありがたき御言葉。アパサ殿のために、この力が役立つのであれば、身に余る光栄でございます」と、力強く応える。 が、同時に、その表情には、隠し切れぬ苦しげな色が強くよぎった。 「ですが…トゥパク・アマル様、今、このインカ軍本隊を離れることには、少々心配もございます」 思い切ったように、しかし、きっぱりと語るアンドレスに、トゥパク・アマルはその目を意味ありげに細め、静かに問う。 「そなたがいなければ、このインカ軍本隊が、弱体化するとでも言うのかね?」 「いえ…そういうわけでは…」 アンドレスが口ごもる。 そして、一呼吸おいて、改めて、トゥパク・アマルを見据えた。 もはや覚悟を決めた鋭い目になり、アンドレスがはっきりとした声音で言う。 「率直に申し上げて、今、このインカ軍本隊自体も、決して、安全な状態ではないと思われます。 それどころか、此度の投降取り止めのこともあり、遠からず、この本隊を標的にして、スペイン軍がこれまで以上の総攻撃を仕掛けてくるのは必定でありましょう。 このような時に、俺が二万もの大軍を率いて、ここを立ち去ってもよいものなのかと…――」 「だからこそ、そなたは、ここを離れるのだ」 アンドレスの言葉を遮るように、決然たる口調でトゥパク・アマルが言う。 え?!…――と、反射的に身を引き締めて背筋を伸ばしたアンドレスの前で、トゥパク・アマルが、あの燃え上がるような目になって続ける。 「万一、このインカ軍本隊が殲滅(せんめつ)させられても、そなたは生き残るのだ。 我らが最後の時まで、共にあり、一網打尽にされてはならぬ!」 今や、その全身からも青白い光を放ちはじめたトゥパク・アマルを見上げるアンドレスの瞳は、激しく揺れている。 アンドレスは挑むような眼で、トゥパク・アマルの方に大きく身を乗り出した。 彼の瞳の中にも、蒼い炎が燃え上がる。 「まるで、この本隊が、敵に敗れるのを甘受するかのようなご発言…!! トゥパク・アマル様らしくありません!!」 「そなたこそ、自惚(うぬぼ)れてはならぬ。 この本隊には、そなた無しでも、十分に戦えるだけの将も兵もある」 トゥパク・アマルは、まるでアンドレスを見下(みくだ)すような色を浮かべ、その目の端で笑ってみせる。 それから、トゥパク・アマルは、再び、総司指揮官としての、厳然たる、精悍で真摯な表情に戻った。 「このわたしが、むざむざスペイン軍にやられるつもりなぞ、あるわけがあるまい。 しかし、最悪の事態を想定しておくことも、また必要。 それに、実際、アパサ殿をお見捨てにすることなどできぬというのも、事実なのだ。 それは、もちろん、アパサ殿とその兵たちの命をお守りするという意味もあるが、それだけではない。 ラ・プラタ副王領でインカ側の勢力を、今、このまま押さえられてはならぬのだ。 このペルー副王領の勢力とて、どこまで維持し拡大できるのか、保障はますますできなくなっている。 仮に、わたしがスペイン人の手に囚われるか殺されるかした暁には、この地での勢力は一気に下火になるやもしれぬ。 その時のためにも、ラ・プラタ副王領での勢力維持は、インカの民にとって、精神的にも、物理的にも、この先の反乱の拠点となり得る要(かなめ)なのだ。 あの地を、今、敵に押さえ込まれるわけにはいかぬ」 トゥパク・アマルの話を喰い入るように聴きながら、アンドレスは生唾を呑んだまま、返す言葉を失(な)くしている。 トゥパク・アマルの言うことの意味が、彼にはとてもよく理解できていた。 しかし…――、アンドレスの中で、もう一人の自分が再び声を上げる。 (トゥパク・アマル様は、あのように仰ってはいるけれど…でも、今、まさに敵が決死の総攻撃をしかけてくるであろう矢先に、本当に、俺が、この本隊を、そして、トゥパク・アマル様の元を離れてよいのか…――?! それに、ここを離れてしまったら…離れてしまったら……) アンドレスの頭の中で、トゥパク・アマルやインカを思う気持ちと、トゥパク・アマルには思いもよらぬであろう密かな想い人への情とが、渦巻きながら激しく交錯し、思考は混迷していく。 今は床の方に完全に視線が落ちたようになっているアンドレスを、覗きこむがごとくの姿勢になりながら、トゥパク・アマルが念を押すように力を込めて言う。 「万一にも、わたしがスペイン軍の手に落ちることがあろうとも、そなたは、間違っても救出に来ようなぞと思ってはいけないよ。 わかっているね、アンドレス」 床に落としていた視線を鋭く上げたアンドレスの端麗な目元は、今、わななくように、恐ろしく険しくなっていく。 「まさか…――!! そんな事態になって、安閑としていられようはずはありません!! すぐにお助けに上がります!!」 「アンドレス。 先程のわたしの話を聞いていなかったのか? 我々が共に一網打尽にされてはならぬのだ。 重ねて言う。 仮にわたしが捕えられても、そなたは決して、救出に来てはならぬ! これは命令だ!!」 最後は語調を強め、炎を燃え滾(たぎ)らせた修羅のごとくに険しい表情でトゥパク・アマルは言うと、もう何も言わせぬという眼で激しくアンドレスを見据えた。 そのトゥパク・アマルの表情を、まるで稲妻に打たれたように愕然と見上げるアンドレスの握り締めた拳が、痙攣するように震えだす。 天幕の中に訪れた静けさの中で、蝋燭の溶け出す音だけが微かに響いた。 「出立は、明後日。 戻って、すぐに準備にかかりなさい」 己の背中を押すようなトゥパク・アマルの口調に、アンドレスは立ち上がらざるを得ない。 トゥパク・アマルが見守る視線を感じながら、アンドレスはおぼつかぬ礼を払い、もはや拭えぬ悲痛な表情を浮かべたまま、その場を後にした。 アンドレスは己の天幕の中で寝台に呆然と腰をかけたまま、両手で顔を覆い、固まったように動けずにいた。 今しがたのトゥパク・アマルとのやり取りが、頭の中でグルグルと周り続ける。 (トゥパク・アマル様は、先の先まで、既に読んでおられるに相違ない!! そして、その読みが、決して明るいものではないことを、トゥパク・アマル様のあの言葉は、あの表情は暗黙に伝えていらしたのだ!!) アンドレスは、震えのとまらぬ瞼を、さらに硬く閉じる。 (トゥパク・アマル様は、もはや覚悟を決めておられるのだ…――!!) 「ああ…!!」 彼は、そのまま両手で頭を抱え込んだまま、その柔らかな髪を指で掻きむしった。 頭の中が芯まで熱くなっているのを覚えながら、しかし、そのような己を冷静に見つめるもう一人の自分の存在をも感じる。 (明後日、出立…。 トゥパク・アマル様の仰る通り、アパサ殿を、そして、ラ・プラタ副王領をお見捨てすることなど、もちろん、できない。 だけど、あの猛将たるアパサ殿が苦戦を強いられるほどの相手とは…――?!) 冷静に考えれば、己が進むべくトゥパク・アマルによって指し示された方向とて、決して、安寧の道ではないのだ。 (全く最悪の場合、トゥパク・アマル様のこのインカ軍本隊も、そして、ラ・プラタ副王領のアパサ殿の精鋭部隊も、両方が共にスペイン軍に征圧される危険性さえあるのだ。 そうなったら…そうなったら、本当に、インカは終わりじゃないか…!!) アンドレスは、頭を抱え込んでいた腕を放し、愕然とした目でその顔を上げた。 遠くを睨む彼の眼差しは、今、非常に険しく、鋭くなる。 反射的に、傍に置かれていたサーベルを握り締めた。 そのまま、ガッシリと握り締め、目の前に掲げ持つと、ゆっくりと鞘から抜いていく。 激しく揺れ動くアンドレスの瞳の中で、その鋼色の刃物はいつもと変わらぬ蒼く気高い気を纏い、彼の指の中で力強く脈動している。 瞼を閉じ、意識を手の中の感触に集中しながら、サーベルの霊妙な波動に己自身の波動を連動させていく。 その時、不意に心の中に、サッと強い光が差し込む気配を感じ、アンドレスはハッと目を見開いた。 (そうか…!! 俺は、早々に決め付けすぎていた。 いいか、もっと冷静に考えてみろ、アンドレス。 このインカ軍本隊には、トゥパク・アマル様がついている。 あのトゥパク・アマル様のことだ、決して諦めてなどいるはずがないじゃないか!! 先々まで読んで、万一の時の、そのリスクまでをも全て計った上で、なお、あのお方はインカが勝ち残るための方策を練り続けているのだ。 ましてや、あのアパサ殿となれば、あのご気性だ…死ぬまで、いや、死しても、なお、戦い抜くほどのお気持ちでいるに違いない!! そうなのだ…俺たちは、絶対に勝たなければならない!! 諦めたら、そこで全てが終わってしまう!! 両軍が、共に敵に屈すのではなく、共に勝ち上がるために、俺はアパサ殿の援護に行こう。 インカ軍の完全勝利のために!!) アンドレスの澄んだ瞳の中で、蒼い炎が煌々と甦る。 彼は決意を秘めた表情になり、しなやかに鍛えられたその長い足で、すっくと立ち上がった。 しかし、次の瞬間、再び胸の奥がズキンと激しく痛む。 (明後日、ここを発ったら、次はいつ戻ってこられるか全く分からない。 いや…果たして、本当に戻ってこられる日があるのかさえ分からないんだ……) 突如、今までとは異なる急激な息苦しさを覚え、彼はギュッと胸を押さえた。 薄暗い空間の中で、頼りなげな蝋燭の炎に照らし出され、ゆらゆらと天幕の布に浮き上がる己の影を見る。 まるでもう一人、人間がそこにいるかのように、影が動く。 今、アンドレスの瞳の中で、その揺れる影は、幻影のように愛しい人の姿に変わっていく。 「コイユール…!」 無意識のままに、その口元から呟きが漏れる。 「コイユール…!! 今宵、あの黒人兵と出会ったのは、この時のだめだったのか?……いや、あの者と会わずとも、俺はきっとこうしていた!! コイユール…!!」 アンドレスは、はじかれたように出口に向かって歩み出す。 そして、そのまま力強い足取りで天幕を抜け、コイユールのいる治療場へと、まるで何かに憑かれたように真夜中の道を突き進んでいった。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第六話 牙城クスコ(13)をご覧ください。◆◇◆ |