第九話 碧海の彼方(8)【 第九話 碧海の彼方(8) 】 ところで、その日の午後遅くにはクスコ市内から避難を完了した市民たちは、幾つかの集団に分けられて、インカ軍が既に統治下に置いた町や村へと、一時的に住まうことになった。 住まう、と言っても、実際は、多くは天幕を張っての野営ではあったが、それでも、インカ兵たちに守られた安全な場所に落ち着くことがかない、クスコの市民たちは、ひとまず安堵の息をついていた。 そのような市民たちの中には、クスコで高級酒場を営んでいた酒場のマスターらもいた。 そして、そんなマスターが、広い天幕の一角で、酒場でも懇意にしていた仲間たちと荷ほどきをしていると、不意に、一人のスペイン人が近づいてきた。 「マスター、ちょっと、いいだろうか?」 「え…! シモン様も、このような場所まで来られていたのですか?!」 驚きを隠せぬマスターの顔には、あなた様は避難する必要などなかったのではありませんか?!――との色が、ありありと浮かんでいる。 そんな相手の目の色を読み取って、シモンは口の端で苦笑して、頷いた。 「ああ、そうだな。 今なら、俺は、まだスペイン軍に保護される側の人間だ。 だが、これからは、どうなるか分からんぞ。 いや、そのようなことより、マスターに話があってきた」 「この私に、お話…でございますか?」 マスターは驚いたように目を瞬かせたが、しかし、すぐに、あの高級酒場にいる時と変わらぬ上品で真摯な眼差しに変わった。 だが、周囲の貧しいインカ族の者たちは、唐突に現れたこのスペイン人に、非難めいた警戒の眼を光らせている。 第一、この若者は、場違いなほどに身なりが良く、その上、何か激しい雰囲気を持ちながらも、纏う気配には気品が漂い、見るからに支配階級に属する「スペイン人名家の御曹司」という印象だったのだ。 だが、若者本人は、そのような周囲の奇異の目など気にも留めず、マスターの背を押しながら集団のはずれの方へ導いていく。 それから、強い鋭気を宿した目で、にじり寄るようにして相手を見据えた。 「マスター、あんた、あのトゥパク・アマルと知り合いだろ? あの酒場は、元々はトゥパク・アマルの息のかかった者たちの溜り場だった。 あんたが、彼と通じていないわけがない」 いきなりのシモンの言葉に、マスターは、いかにも驚いた、という表情をつくっている。 「シモン様、一体、どうされたのです?」 「トゥパク・アマルと会いたい。 間を取り持ってくれないか?」 「――!」 マスターは、相変わらず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、やがて、あの見慣れた上品で温厚な面持ちに戻って、にっこりと微笑んだ。 そして、事情を問うこともなく、ただ品よく微笑したまま、沈着な口調で応える。 「分かりました、シモン様。 即刻、手配いたしましょう」 それからまもなく、マスターの放った早馬の使者が、シモンたちの元へと舞い戻ってきた。 小一時間ほどで戻ってきた素早い使者の帰還は、どこまで行ってきたのか分からないが、いずれにしろトゥパク・アマル陣営を往復してくるには早すぎる。 それでも、さすがのシモンも驚くほどに、まるで全てが、事前に、周到に用意されていたかと思われるほどに、事の進みが非常にスムーズに思われた。 (もしや、こうなることを予想していた?) シモンは、チラリと鋭い横目でマスターを一瞥する――この男、やはりトゥパク・アマルの手下か? そう訝る心境も無いではなかったが、今さら、それだからといって、どうだというのだ。 むしろ、俺が招かれざる客でないなら、それで良いではないか――! そんな思いを胸に、シモンが使者の様子を見に行くと、早馬の使者に連れられて彼らの待つ天幕に馳せ参じたのは、見知らぬ一人のスペイン人青年だった。 「おまえは…?」 シモンは、いきなり現れた眼前の青年を見据えた。 ひょろりとした体格に自信なさげな表情――その割には、随分と高価そうな服を着込んでいる。 だが、その人物に漂う、いかにも植民地生まれの貧しいスペイン人といった雰囲気は、どれほど立派な衣服を纏おうとも隠しようがなかった。 そのアンバランスぶりの際立つ青年を、シモンはしげしげと眺め渡した後、不審げな視線をマスターに投げた。 他方、マスターは温厚な笑みを湛えたまま、馳せ参じたばかりで、まだ息を切らしている若者の細い肩を抱き締めた。 「お元気であられましたか? かつてのあなた様のお働き、陛下と共にご恩を忘れたことはありませんぞ!」 「マスター…――いや…おかげで、俺は、今、こうして何不自由なく暮らしてる!」 そう言って、若者もマスターの肩を握り締めた。 それから、ゆっくり離れながら、はにかむ。 マスターは微笑んで、感慨深げに頷いた。 「あなた様がつつがなくお暮らしなら、陛下も、たいそうお慶びになられましょう――リノ殿!!」 そんな二人のやり取りを、さっぱり訳が分からん!と、やや憮然とした表情で見据えているシモンに、マスターは振り向いて言った。 「シモン様、お待たせいたしました。 こちらのリノ殿が、あなた様を陛下の元へとご案内いたします。 さあ、今は一刻も争う時。 すぐにも、出立なされませ!!」 「おい、ちょっと待ってくれ。 この者が、トゥパク・アマルの元へ俺を連れていくと言うのか?」 ますます不信感いっぱいの表情になって、リノを斜めに見下ろしているシモンに、マスターは深く頷いた。 「はい、シモン様。 陛下は、今頃は、恐らく、英国艦隊の襲来に備えて沿岸部へと下りておりましょう。 インカ軍の警護も、厳重を極めているはずです。 面識の無い、しかも、どう見ても上流階級のスペイン人のあなた様が、容易に近づけるような状態ではございますまい。 ですが、ここにおられるリノ殿は、陛下さえ、頭が上がらぬほどのお方なのです」 「トゥパク・アマルさえ頭が上がらないだと?! おまえ、一体、何者なんだ?!」 混乱して呻くシモンに、マスターはにこやかに、しかし、真剣さも交えて続ける。 「シモン様、今は、ゆっくりお話ししている時間はございません。 ですが、これ以上、今、あなた様に相応しい道行きのお方はございますまい。 さあさあ、早くご出立を!!」 まだ納得しかねる面持ちではあったが、マスターにせきたてられるようにして、シモンは用意された馬へと跨った。 「シモン様、護衛をおつけいたしますか?」 やや案ずる眼差しのマスターに、シモンは、あの力強い眼光が閃く精悍な横顔で首を振る。 そして、腰の重厚な銃を、上衣の上から握り締めた。 「心配は無用だ。 備えはある」 一方、馬なぞ自力では操れぬリノが、シモンと同じ馬上に乗り込み、おずおずと背中からシモンにしがみついた。 「――…!」 シモンは苦虫を噛み潰したような顔のまま――が、「良く分からんが、よろしく頼む!」とリノを一瞥すると、鋭い掛け声と共に、黄昏時の光に照らされた畦道(あぜみち)へと馬を駆り出していった。 その去り行く姿を見届けて、天幕の中に戻ってきたマスターに、周囲のインカ族の者たちが、すかさず集まってきた。 「誰なんです?! あのスペイン人たちは!!」 マスターは荷ほどきの続きに取りかかりながら、「リノ殿のことは、陛下の恩人としか言うことはできませんが…」と、微笑みながら続けていく。 「もう一人のシモン様は、この南米大陸有数のご名家のご子息です。 もう亡くなられているご両親はスペイン渡来の白人で、とはいえ、シモン様は、この新大陸のご出身ですが――。 ですが、普通の植民地生まれの白人たちのような境遇とは、その資産も受けてきた教育も、何もかもが、天と地ほども違うお人です」 「え?!」 周囲のインカ族たちは、ますます混乱して、マスターに詰め寄った。 「そんなヤツが、どうして、トゥパク・アマル様に会いたがる?! お傍になんか行かせて、トゥパク・アマル様に危険はないのか?!」 マスターは、ゆっくりと首を振った。 「いいえ。 ご案じなさいますな。 あのお方は、信頼に値するお方です」 それから、ふっと思慮深い表情で宙を見た後、独り言のように呟いた。 「――と、私は信じているのですが……」 他方、その頃、馬上のシモンたちは、既に幾つかの村々を通過しながら、夜の帳の降りた山岳の道を海岸線に向かって、猛烈な勢いで飛ばし続けていた。 やがて、シモンは、振り落とされぬよう必死で己の腰にしがみついているリノに向かって声を上げる。 「おい、おまえ!! リノって言ったな?!」 「え?! は…はい…!」 「リノ、おまえ、トゥパク・アマルの居場所を本当に知っているんだな?!」 「え…!それなら…」と、リノはシモンの背にすがりつきながら、懐から地図のようなものを取り出した。 「この地図、マスターから渡されてきました。 トゥパク・アマルのいる沿岸部の陣営のありかが記されているって…!」 「地図だと?! 地図があるなら、最初から、それだけもらえば、俺一人でも行けたではないか!!」 思わず憤然として声を荒げるシモンに、リノは怯えて身を縮めながらも辛うじて言い返す。 「だ、だけど、問題は、陣営の門をどうやって通してもらうかですよね? 俺がいなければ、あなたは門前払いか、場合によっては、怪しまれて囚われたりも……」 「む…!」と、シモンは呟くと、さらに馬を駆り立てながら再び声を張り上げた。 「リノ、おまえ、トゥパク・アマルと、どういう関係だ?!」 風にかき消されぬように、がなり立てるかのようなシモンの剣幕に、相変わらず気弱さの変わらぬリノは、ギュッといっそう身を竦める。 「俺は…――脱獄の手伝いをしたんだ……」 「――!!」 シモンは驚愕して、手綱を握ったまま、思わず背後のリノを振り向いた。 「脱獄を手伝っただと? おまえが?!」 「俺は、あの時、トゥパク・アマルが囚われていた地下牢の番兵をしていて…それで……」 「――……」 暫しシモンは言葉を失っていたが、徐々に手綱を締めると、その疾走速度を落としていく。 それから、真面目な顔になって、真っ直ぐ後ろのリノを見据えた。 「人は見かけによらぬものだな。 スペイン側から見れば、トゥパク・アマルほどの重罪人はいまい。 そのトゥパク・アマルの脱獄幇助ともなれば、己の命が吹き飛ぶ覚悟がなければ、到底、できることではあるまい。 リノ、まさか、おまえ、どこかの地下組織に属していて、トゥパク・アマルを助けるために計画的に牢番に…とか?」 「いや…俺は、全く、ただの端くれの牢番で」と、リノは、おずおずと首を振る。 「あの時は…なんか、なんとなく流れで…」 「なんとなく、流れで、だと?」 途端、シモンは冷ややかな視線で、リノを斜めに睥睨した。 「では、金か? 大金を積まれたのか?」 「か…金? そ、そうだったのかな? ん…そうだったような気もするし…けれど、あの時の記憶が、あまりないんです。 あの時は、なんであんなふうになったのか…まるで、自分を見失っていて……。 トゥパク・アマルと何度も牢で接しているうちに…」 「ふ…ん――では、色香にでも当てられたか」 その瞬間、暗闇の中でも分かるほどに、リノの顔面が耳まで紅潮した。 シモンは、皮相に口の端を歪める。 「なるほど。 あのトゥパク・アマルに抱き込まれたというわけか。 その上、今まで生きながらえているとは、ずいぶんと悪運の強い奴だ」 冷ややかな声音でそう言いながら、再び彼は前方に向き直った。 そのシモンの背後で、完全に赤らんだ顔を相手の背に隠すようにしながら、それでも、リノは独り言のように何かを囁いている。 「――だけど、後悔はしてないです……!」 「だろうな。 大方、一生かかっても使い切れぬような大金を握らされ、スペイン側の目の届かぬところに庇護され、己だけは、安泰の豪遊生活ってところだろう。 それなら、まあ、後悔もなかろうよ」 いっそう冷たく響くシモンの言葉に、リノは唇を噛み締めた。 「いえ…そうじゃなくて…。 俺、トゥパク・アマルが牢から出られて良かったって、今は、本当にそう思ってるんです」 「それは、どういうことだ?」 次第に馬の速度を上げだしたシモンの低い声が、彼の背を伝って、縋り付いているリノの胸の方へと響いてくる。 「あの人は…本当に、この国を変えてくれるかもしれないから……」 そう呟くリノの言葉を背で感じ取りながら、シモンは鋭利な横顔を前方に向けたまま、海岸線に向かって馬をさらに加速させていく。 既に、辺りには、夜風に混ざって潮の匂いが漂いはじめていた。 沿岸部を見渡せる丘陵地帯に広がる巨大なトゥパク・アマル陣営――そして、数キロの距離を隔て、軍港を見下ろす絶好の断崖上には、既にスペイン軍総指揮官アレッチェの構える大陣営が展開している。 当然ながら、牙城クスコで既に開始されているディエゴ軍との戦闘に向けて、アレッチェは多数の援軍を派兵していた。 それでも、まずは迎え撃つべく強敵、英国艦隊のために、当陣営に残された兵は多大であった。 強い海風の吹きつけるそれぞれの場所で、互いに睨みを利かせる両陣営の燃え盛る松明が、熱く夜の天空を焦がしている。 かくして、その海岸沿いのインカ軍陣営では、トゥパク・アマルと共に此度の作戦に臨む若き兵たち、そして、その将たるアンドレスやロレンソたちが、余念の無い準備に奔走していた。 今、アンドレスは、英国艦隊からもたらされた約1万5千点に及ぶ銃剣類を慎重に吟味する兵たちを見回りながら、自らもそれらのサーベルや短剣を鞘から抜き取っては、その鋼の状態に鋭い視線を馳せている。 それら兵たちの中で、此度の作戦について既に内容を知らされている者たちの面相は、これまでにも増して険しく張り詰めたものだった。 今まで以上に厳しく、難しい戦いになる――その確信から、武器を吟味する兵たちの眼差しも、自(おの)ずと非常に鋭くなっている。 だが、その時、武器庫の入り口の方から、場の空気を一変させるような、きびきびとした明るい声が響いた。 「ええっと、それで、この火薬類は、どこに置いときますか?!」 張りのある、どこか聞き覚えのあるその声に、アンドレスは、反射的にそちらを振り向いた。 (え?! あの声って……) そんな彼の目に、パンパンに火薬の詰まった大きな麻袋を、その両腕のみならず、器用にも頭の上にまでのせて、武器庫に入ってきた黒人青年の闊達な笑顔が映る。 「おまえ!! 火薬を頭にのっけるなど、何たる!! その辺にぶちまけたら、どんな危険なことになるか…!!」 ギョッとしながら憤然と声を荒げている傍のインカ兵たちに、黒人青年は、カカカと明るく笑って、茶目っ気のあるウィンクを返している。 「こんなこと、俺たちには朝飯前ですよ。 落としゃしませんって!」 その様子に、アンドレスはハッと合点が言って、思わず声を上げていた。 「あっ!! やっぱり、ジェロニモ!!」 驚きと歓喜のない混ぜになった声を発している相手の方へとジェロニモも振り向いて、「おっと!これは、アンドレス様!!」と、すぐに親しげな満面の笑顔になった。 そして、頭から丁寧に火薬袋を下ろすと、ガッツポーズを取りながら、生き生きと力強く言う。 「アンドレス様!! ついに今回は、トゥパク・アマル様の副官ですって?!」 「なっ――おまえ…っ! アンドレス様に対して、その言い草は…!!」 周囲のインカ兵たちは、あまりに馴れ馴れしい物言いの黒人兵に、一斉に色めき立った。 一方、アンドレスは素早い足取りでジェロニモに走り寄ると、相手の腕をムズと掴み取る。 「ジェロニモ! ちょっと、いいか?」 そして、周囲の兵たちに、「少しだけ、はずす。その間、ここを頼む!」と告げると、その黒人兵を引き摺るようにして武器庫の外へと急ぎ足で去っていく。 そんなアンドレスの後ろ姿と、そして、「え?え?!俺、何かしましたか?!」と呻きながらアタフタと引っ張られていく黒人兵を見送りながら、インカ兵たちも顔を見合わせた。 「あの黒人兵、手打ちか?」 「まさか」と、傍のインカ兵が手をひらひらと振った。 「確かに無礼な兵だが、あの程度のことじゃな。 ましてや、あのアンドレス様だし」 「じゃ、なんだ?」 「さぁ?」 そんな言葉を交わしながら兵たちが顔を見合わせている間にも、アンドレスはジェロニモの腕を引っ張りながら、人目を避けた月下の木陰へと寄っていく。 「アンドレス様、俺、別に何も悪気は…!」 「もちろん、分かってる。 それより、ジェロニモ、君もここに来ていたなんて!」 「その…本気で痛いですよぉ、力強すぎ…!」 力(りき)んでにじり寄るアンドレスの手を己の腕からほどきながら、ジェロニモが本当に痛そうな声を上げた。 そして、やっと相手の手から逃れると、「俺がここにいるのは、当然です。アンドレス様、何を今更?」と、軽く肩を竦める。 「ビルカパサ様やマルセラ様も、今回は、トゥパク・アマル様やアンドレス様と一緒に沿岸部隊への参加ですよね? 俺は、ずっと、ビルカパサ様の連隊に属して戦ってきたんです。 ここにいるのは、ごく当然のことですよ。 そんなことより、アンドレス様が本当に気にしているのは、もっと別の人でしょ?」 「えっ…!」 たちまち耳元を赤らめたアンドレスに、ジェロニモは、ニッと悪戯っぽい笑顔を見せた。 「やれやれ、その様子だと、相変わらず、あんまり進展なさそうですねぇ」 「――!!」 いよいよ顔を真っ赤にしたアンドレスは、「なっ、なっ…なっ…!!」と、言葉にならない声を発しながらワナワナとしている。 「ははぁ、やっぱり図星ですか」 ジェロニモは、今度は、少し真顔になって小さく溜息をついた。 身分はずっと高いとはいえ、自分よりも年下のアンドレスは、ジェロニモの目には、まだ純な少年のように映ってしまう。 やがて優しい眼差しになると、ジェロニモは、まだ頭から湯気を立てて赤くなったままのアンドレスに、真摯な声で言った。 「アンドレス様、すいません。 俺は、いつも差し出がましいことを言ってしまって。 お二人には、お二人のペースがあるんだし、ね。 それに、俺、本当に、嬉しく思っているんですよ! 反乱がはじまった当初に比べれば、コイユールは、ずいぶん明るくなりましたからね」 「えっ…!!」 まだ顔を火照らせたまま、涙目になった瞳をハッと向けたアンドレスに、ジェロニモは、温かく微笑んで頷いた。 「アンドレス様のお力ですよ!」 「――…!」 言葉の出ないアンドレスに、ジェロニモは、今度は精悍な兵士の目に戻ると、木陰から道の方へと一歩踏み出した。 「コイユールも、はじめっから俺と同じビルカパサ様の連隊に属しています。 だから、もちろん、いますよ、この陣営に!」 「コ…コイユールも、ここに…」 「そう、いますよ。 すぐ、そこに!」 そう言って、ジェロニモは笑顔で軽く親指を立て、己の後方を指差した。 「今回の決戦は、今までにも増して激しいものになるって、皆、分かってますからね。 もちろん、コイユールも、それを知ってる。 それで、負傷兵をしっかり看護できる態勢を整えておかないといけないって、これまで以上に気合いが入ってるみたいですよ。 そうそう、負傷兵と言えば、さっき、治療場に、トゥパク・アマル様が来てたみたいですが」 「え?! トゥパク・アマル様が?! どうして、治療場に?!」 まだ顔を紅潮させたまま、しかし、「まさか、トゥパク・アマル様が、何かお怪我を?!」と、にわかに真顔に戻りゆくアンドレスに、ジェロニモも真面目な面差しを向けた。 「いえ、そういうわけじゃなくて、治療場の整備のためらしいです。 治療場を数倍に広げて、もっと治療態勢を整えるとかって言ってました。 それほどに、負傷者が多く出ることを見越しているってことでしょう。 それって、やっぱり、かなりの激戦になるってことですよね?」 ジェロニモの話を聞いたアンドレスが急ぎ足で治療場へと向かうと、まだトゥパク・アマルはそこにいて、治療場の拡張作業に奔走している兵たちに間断なく指示を送っていた。 そして、平素からインカ軍に属する従軍医や看護の義勇兵はもとより、近隣から集められた有志の医師や看護を手伝う村人たちが、兵たちの間を縫って、拡張作業を慌しく手伝っている。 かくして、アンドレスが鼓動を覚えながら見渡す視線の先に、案の定、コイユールの姿も飛び込んできた。 彼の視界の中で、コイユールは山のような薬草の束を抱えながら、相変わらず、忙しそうに立ち働いている。 だが、ふっと手を止めては、少し離れたところに立って兵たちに淀みなく指示を発しているトゥパク・アマルの後ろ姿に、吸い込まれるように見入っている――ように、アンドレスには見えた。 「む…っ」 アンドレスは、いつしか頬を膨らませて、暫しコイユールとトゥパク・アマルを交互に見渡していたが、トゥパク・アマルに注がれる眩しげなコイユールの眼差しに突き動かされるようにして、無意識のうちに彼の足は彼女の傍に大股で歩み寄っていた。 「あっ…!」 長いおさげを揺らしながら振り向いたコイユールは、一瞬、驚き、それから、すぐに嬉しそうな表情になった。 そして、薬草を手にしたまま、「アンドレス!」と、周囲に聞こえないよう小声で囁く。 アンドレスと話しをしたのは、トゥパク・アマルの本隊に合流する以前のことだったし、あの時もアリスメンディの到来によって慌しく別れたのだ。 久しぶりに接したアンドレスを前にして、彼女の顔からは自然に笑顔が零(こぼ)れ出す。 他方、アンドレスは、コイユールから目をそらしたまま、軽く咳払いをした。 「ト…トゥパク・アマル様が、来てるんだな!」 その自分の声の硬く冷ややかなトーンに、アンドレス自身が驚いて、密かに自ら固唾を呑んだ。 一方、いつもと様子の違うアンドレスに、コイユールも驚いて瞳を瞬かせる。 「アンドレス、どうかしたの?」 「え…いや…――」 「もしかして、今度の決戦のことで何か? とても激戦になるって、私も聞いて……」 すっかり案ずる眼差しになって、顔色も蒼ざめてきたコイユールに、アンドレスは半ば焦って、「いや、そういうことじゃなくって……!」と、首を振った。 「じゃ、何なの?」 「――って、いうか、今、トゥパク・アマル様に見蕩れてなかった?!」 「え…っ!?」 コイユールは、くっきりとした目を大きく見開くと、混乱気味に黒い瞳を揺らした。 それから、先刻の自分の姿を思い出すかのように視線を漂わせ、やがてポツリと呟く。 「確かに、トゥパク・アマル様の方を見てはいたけど、私…別に見蕩れてなんか…! アンドレスこそ、今日は、なんで、そんな言い方するの?」 戸惑いがちに己の顔を覗き込んだコイユールに、アンドレスは、つぃっと横を向く。 「だって、昔っから、コイユールは、トゥパク・アマル様には、いつもそんな目で……」 そう言いかけたまま耳元を染めている相手に、コイユールも、パッと顔を上気させた。 「やだ…! アンドレスったら、まさか…妬いてるの?」 「ややややや妬いてなんかっ……!!!」 いよいよ顔から火を上げ出したアンドレスに、コイユールは思わず吹き出して、クスクス笑い出した。 「コイユール……!!!」 片やコイユールは、周囲の目を引かないように慌てて声を抑えると、「アンドレス!」と、真摯な目を上げる。 「私が好きなのは、昔も、今も、アンドレスだけ! トゥパク・アマル様のことは、敬愛とか――そんな感じ」 そう言ってしまってから、彼女は、自分がアンドレスを「好き」とはっきり口にしたことに気付いて、腕の中の薬草に顔を埋(うず)めながら、いっそう頬を染めた。 だが、今のアンドレスには、そんなコイユールの様子も言葉も、素直に目耳に入ってくる余地はないらしい。 「敬愛とかって…っ! それって、好きとは違うのか?!」 「む…! 今日は、絡むはね…! 違うと思うわ。 だって、アンドレスだって、トゥパク・アマル様のこと、敬愛してるでしょ? それと同じじゃない?」 「そ、そんなの屁理屈だろっ! 俺は同性だけど、少なくとも、コイユールは異性なんだし!!」 「まっ…な! 屁理屈は、アンドレスの方じゃない!!」 次第に周囲の目も忘れて、白熱した二人が声高になりだした頃、さすがに何かを感じ取ったのか、つっとトゥパク・アマルがこちらを振り向いた。 そして、治療場の隅に突っ立っているアンドレスを見つけると、やや驚いたように目を見開いた。 「アンドレス? そこで、何をしている? そなたのすべきことは済んだのか?!」 「あっ…ト、トゥパク・アマル様…!!! いえ…ちょっと……!!」 この最重要な時に何をしているのだ?!と、咎める色も宿して次第に厳しくなるトゥパク・アマルの表情に、口ごもっているアンドレスの傍から、コイユールも慌てて身を引いた。 そして、困惑した小声で囁く。 「アンドレス、はやく任務に戻って…!」 「う…でも……!」 挙動不審のアンドレスの方に訝しげな視線を投げていたトゥパク・アマルだが、周囲の兵たちに何かを問いかけられて、そちらに向き直った。 他方、トゥパク・アマルの一喝に冷や水を浴びたように我を取り戻したアンドレスが、コイユールに再び意識を戻した時には、彼女は薬草を抱き締めたまま、もう、すっかり離れたところに移っていた。 (アンドレス! はやく、任務に戻って!!) 彼女は心配そうな眼差しで、そう懸命に身振りで訴えている。 アンドレスは、己への苛立ちと口惜しさから唇を噛んだ。 (ああ…くそっ…! せっかく会えたってのに、俺は何やってんだ?! しかも、このまま、決戦に突入してしまうってのに――!!) 恐らく、コイユールも同じ思いがあるのか、仕事の手を動かしながらも、今は半ば涙ぐんだ瞳を揺らしながら、チラチラと口惜しげにこちらに視線を馳せている。 (コイユール――…!) 心の中で彼女の名前を呼んだ瞬間、ハッと思い出したように、アンドレスは自分の胸に手を置いた。 そして、素早く己の胸元に衣服の間から指を差し入れると、首からさげていた何物かを、ぐっと、引っ張り出した。 そして、それをコイユールの方に、大きく振って見せる。 (コイユール、ほら、これ!!) (え…?!) 驚いて見開いた目を凝らすコイユールの視線の先では、アンドレスの手の中で、何かが月光を浴びてキラキラと煌いている。 あ…――!!と、コイユールの顔もパッと大きく輝いた。 それは、かつてソラータの陣営で、彼女がアンドレスに贈った手作りのグランデーロのお守りだった。 (アンドレス、持っていてくれたのね!!) 嬉しそうに溢れんばかりの笑顔を見せている彼女の方へ、アンドレスも、はにかんで力強く頷いた。 その小さなガラス瓶は透明なオイルで満たされ、その中に、アカシアの実やヒマワリの種など彩り美しい種子類や、桃色に光るインカローズや黄色い鉱石の欠片などが全部で9種類ほど、ぎっりしと詰められている。 9種類のそれぞれが特別な守護の力を持つと信じられており、古来より、インカの人々にお守りとして愛用されてきたものばかりである。 彼の耳元に、あの時のコイユールの言葉が、今もはっきりと聞こえてくる。 『アンドレスに…これを…――。 9種類のお守りの力を瓶の中で1つに纏めてあるから、これを持っていれば、槍で刺されても死なないって言い伝えられているほどなの。 だから、きっと、戦場でもアンドレスのことを守ってくれると思って…!』 そして、今、少し離れたところにいる現実のコイユールもまた、己の方へと両手を組んで、深く祈るように瞼を伏せている。 (アンドレス、必ず戻ってきて……!!) アンドレスは、光るグランデーロをギュッと握り締めた。 そして、彼もまた、彼女の方へと誓いを立てるように瞼を伏せ、そっと小瓶に口づける。 ――戻ってくる、必ず、君の元に…――!! ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第九話 碧海の彼方(9)をご覧ください。◆◇◆ |