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カテゴリ:第10話 遥かなる虹の民
再び静けさの訪れた室内を、窓外から流れくる潮騒が満たしていく。 アンドレスは、両手に捧(ささ)げ持つようにして、机上の封書を手に取った。 「わかりました、トゥパク・アマル様。 今は、いろいろ詮索(せんさく)するよりも、一日も早く『青き月の谷』にたどり着き、当地で、俺自身の目で見て、確かめてまいります。 ……と、申しましても、今は、何を確かめてくるのかも、正直、俺は、よく分かっていないのですが。 だけど、それも、現地に行けば、きっと、つかめるような気がします。 いずれにしても、この書状の宛先の御方に、必ずや、陛下の書状をお渡しいたします。 そして、迅速に帰還してまいります」 いつもの溌剌(はつらつ)とした明るい笑顔を取り戻して答えたアンドレスに、トゥパク・アマルも「頼んだぞ」と笑みを返す。 その時、執務室の扉の外で、力強いノック音が響いた。 「トゥパク・アマル様、ビルカパサです。 お呼びとうかがい、まいりました」 「ビルカパサか、待っていたぞ。 入りなさい」 「失礼いたします」 トゥパク・アマルの重臣ビルカパサの野太い声が聞こえ、ほどなく、開いた扉の向こうから、鷲鼻のきわだつ野性的な顔がのぞいた。 「これはアンドレス様。 このような時に、お邪魔ではありませんか?」 部屋の奥でトゥパク・アマルと向き合って座っているアンドレスに気付き、ビルカパサは、二人の方に丁寧に礼を送る。 「かまわぬ。 さあ、中へ」 トゥパク・アマルの声に促され、「それでは」と、その厳(いか)めしい体躯(たいく)を室内に歩み進ませながら、ビルカパサはアンドレスの手にある封書に目を留めた。 それから、納得したように頷く。 「その書状、アンドレス様に託されたのですな」 「え? それでは、ビルカパサ殿も、この書状のことを知っていたのですか?」 アンドレスが、瞳を瞬(しばたた)かせた。 「はい。 今朝方、トゥパク・アマル様がしたためていらっしゃるのを目にしておりました」 「そうだったのですか。 ビルカパサ殿も、この書状の宛先の御方をご存知なのですか?」 「そうですね、ふむ、なんとお答えしたらよいのか難しいところです。 御名前や、インカといかなる繋(つな)がりがある御方なのか、ということを僅かに知っている程度なのです。 もちろん、お会いしたこともありませんし。 ですが、その御方の名を耳にするたび、わたしは、古(いにしえ)の神話か伝説の中に彷徨(さまよ)いこんだような妙に不思議な感覚にとらわれるのです」 「ビルカパサ殿がそんなふうに…?!」 実際には情に篤(あつ)い人物なのだが、表面的には、冷徹なほど感情統制がいきとどいたビルカパサから、そのような言葉が出て、アンドレスは、ますます忙しく両目を瞬かせている。 それから、彼の視線は、おのずと封筒の宛名の方に吸い寄せられていく。 そこには住所地は記されておらず、ただ、宛先の人物の姓と名が、トゥパク・アマルの流麗な文字でつづられていた。 (…………?) 改めて、そこに記された宛名を見つめるアンドレスの中には、新たな疑問が頭をもたげてくる。 もともとインカには文字が無いため、その宛名は、スペイン語のアルファベットを用いて記されているのだが、果たして、どこの国の人の名なのだろう? そこにつづられている宛先の氏名は、これまで、見たことも、聞いたこともない類(たぐい)のものだった。 インカ族の名ではないことは明らかだし、スペイン人にもこんな名はありそうにない。 神学校時代には、さまざまな国の書物に触れる機会もあり、南米各地や北米、ヨーロッパなどの国々の人々の名もひととおり目耳にしてきたが、この宛名に書かれているような氏名は初めてだった。 (ビルカパサ殿の言うとおり、確かに不思議な感じのする名だ。 どこか懐かしいような、それに、なんて綺麗な響きだろう) そんなアンドレスの様子を、トゥパク・アマルとビルカパサが穏やかな眼差しでしばらく見守っていたが、やがて、トゥパク・アマルが口火を切った。 「さあ、それでは、アンドレス、そろそろ出立の準備にかかってくれたまえ。 ビルカパサ、そなたを呼んだのはそのためだ。 アンドレスが速(すみ)やかに旅立てるよう手助けしてやってほしい」 「畏(かしこ)まりました」 ビルカパサが逞しい笑みを見せ、恭しく礼を払った。 【登場人物のご紹介】 ☆その他の登場人物はこちらです☆ ≪トゥパク・アマル≫(インカ軍) ≪アンドレス≫(インカ軍) ≪ビルカパサ≫(インカ軍) ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 目次 現在のストーリーの概略はこちら HPの現在連載シーンはこちら ★いつも温かく応援してくださいまして、本当にありがとうございます! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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