「中に入ってもよいか?」
軽く振り向いて視線で問いかけたトゥパク・アマルに、従軍医は丁寧に頷き、それから、低音(こごえ)で言い添えた。
「はい、トゥパク・アマル様。
コイユールが中におり、アレッチェ様の看病をしておりますが――」
そう言いさして、少し口ごもってから、従軍医が躊躇(ためら)いがちに語を継ぐ。
「実は、今朝、この部屋に往診にまいりましたとき、コイユールが寝台の脇で椅子に座ったまま気を失っておりまして……。
気つけ薬を飲ませたところ、しばらくしたら、目を覚ましはしたのですが。
とはいっても、その後も、ずっと顔色がひどく悪くて、表情も強張(こわば)っており…、かといって、休むように言っても、大丈夫だからと。
意識を失(な)くしていた事情はまだ聞けてはおりませんが、どうも今は本調子ではないようなのでございます。
このようなお聞き苦しいことをトゥパク・アマル様の御耳に入れて、誠に申し訳ございません。
ただ、万一、陛下の御前で何か粗相(そそう)がございましたら…、今のコイユールはそのような状態であることを、どうかお含みおき頂ければと……」
扉に手をかけたまま、黙って従軍医の言葉に耳を傾けていたトゥパク・アマルが、「さようであったか」と、目元を思慮深くさせた。
「わかった、そのような様子であること、心に留め置こう」
「恐れ入ります、トゥパク・アマル様」
従軍医は、再度、低く身を屈める。
他方、トゥパク・アマルは、回廊の大きな窓の向こうに視線を馳せ、何かを思い出しているかのような遠い眼差しになっている。
窓外に広がる外界の風景は、既に夜の帳(とばり)の中に閉ざされ、うっそうと茂る樹木のシルエット以外、何も見えない。
やがて、トゥパク・アマルが、おもむろに口を開いた。
「――そなた、覚えているか?
クスコ戦で負傷したわたしに、そなたが手術を施してくれていたとき、そなたの補佐をしていたコイユールが、術中に意識を失くしてしまったことがあったであろう」
トゥパク・アマルの言葉に、従軍医も、ハッと顔を上げ、窪んだ老齢な目を大きく見開いた。
「そういえば…そのようなことがありましたな……」
「あの時、コイユールは、術中のわたしの痛みをやわらげるため、集中するあまりに、ある種のトランス状態に入っていた。
そして、その時に、トゥンガスカの決戦でインカ軍が大敗することを暗示する予知夢を見たのだ。
もしや、此度も、アレッチェ殿の看護中に、同じような状態になっていたのかもしれぬ」
「なるほど……!
陛下にそう仰って頂きますと、確かに、そのような可能性は考えられるかと」
「いずれにしろ、コイユールに聞いてみなくては、わからぬがな。
できれば、一度、コイユールと直接話してみたいものだ。
近々、わたしの執務室まで来るよう、後で伝えておいてはくれぬか?
アレッチェ殿の前では話しにくいこともあろうからな」
「畏まりました」
恭順を示している従軍医に頷き返し、それから、トゥパク・アマルは前に向き直ると、重々しい扉をゆっくり押し開いていく。
居室の中は、室内の四隅や寝台脇のサイドテーブル、治療台の上などに、多数の燭台が置かれているにもかかわらず、妙に薄暗く感じられる。
室温も、初夏とはいえ夜間の冷え込みにも対処できるよう、暖炉には、ほどよく薪がくべられているというのに、異様な冷気が漂っている。
トゥパク・アマルが、一歩、中に踏み入ると、従軍医もその後ろに従った。
一方、寝台に横たわったアレッチェの足元にひれ伏すようにして彼の足を布で清めていたコイユールは、扉の向こうから現れた人物に気付いて、はじかれたように顔を上げた。
「トゥパク・アマル様……!?」
突然のトゥパク・アマルの来訪に驚愕して身を固くしている彼女の顔色は、従軍医から聞いていたとおり、蝋(ろう)のように蒼白で、表情も硬く強張っている。
そのようなコイユールに、トゥパク・アマルは、いたわるように優しく微笑みかけた。
さらにそのまま、瞳だけを僅かに動かし、彼女の手元から覗き見えるアレッチェの足元の皮膚を、瞬間的に視野におさめた。
従軍医の報告どおり、そこにも、赤くひきつれた生々しいケロイドの兆候が、既に現れはじめている。
トゥパク・アマルは微かに瞼を伏せ、それから、包帯の隙間から氷の刃で刺し貫くがごとく冷厳な視線を己に向けているアレッチェの方へ、ゆっくりと歩み寄る。
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≪トゥパク・アマル≫(インカ軍)
反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。
インカ皇帝末裔であり、植民地下にありながらも、民からは「インカ(皇帝)」と称され、敬愛される。
インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。
「トゥパク・アマル」とは、インカのケチュア語で「(高貴なる)炎の竜」の意味。
清廉高潔な人物。漆黒長髪の精悍な美男子(史実どおり)。
≪コイユール≫(インカ軍)
インカ族の貧しくも清らかな農民の少女。義勇兵として参戦。
代々一族に伝わる神秘的な自然療法を行い、その療法をきっかけにアンドレスと知り合う。
アンドレスとは幼馴染みのような間柄だったが、やがて身分や立場を超えて愛し合うようになる。
『コイユール』とは、インカのケチュア語で『星』の意味。
≪ホセ・アントニオ・アレッチェ≫(スペイン軍)
植民地ペルーの行政を監督するためにスペインから派遣されたエリート高官(全権植民地巡察官)で、植民地支配における多大な権力を有する。
ペルー副王領の反乱軍討伐隊の総指揮官として、反乱鎮圧の総責任者をつとめる。
有能だが、プライドが高く、偏見の強い冷酷無比な人物。
名実共に、トゥパク・アマルの宿敵である。
トゥパク・アマルに暴行を加えていた際の発火によって大火傷を負い、その現場である砦を占拠したインカ軍の元で治療を受けている。
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