翌朝――。
アンドレスたち一行の旅立ちの日である。
まだ夜明け前の初夏の早朝は、冷え込みも厳しい。
濃紺から澄んだ藍色へと移りゆく空の下、アンドレス、ジェロニモ、ペドロ、ヨハン、そして、彼らを見送るビルカパサの姿があった。
今回のアンドレスたちの旅は、インカ族の者たちの間でも知られていない秘境――インカ帝国が栄えていた黄金時代から、インカ皇帝本人や一部の神官たちだけに知られてきた特別な場所――が目的地であったから、インカ軍の兵たちにも明かされてはいなかった。
そのため、出立の時刻も、このような人目につかぬ頃合いが選ばれたのだった。
旅立つアンドレスたち四人は、旅の道中、どこで出くわすか分からぬスペイン兵たちの目をくらますために、インカ族の庶民の一般的な旅装束に扮している。
というのも、旅の目的地である秘密のその場所は、トゥパク・アマルの話によれば、前人未到の山岳地帯にあるらしいのだが、しかし、入山するまでの道程では、スペイン人たちも行き交う街道や町なども通過していくことになりそうだからである。
なにしろ、スペイン軍幹部によって、トゥパク・アマルはもちろんのこと、アンドレスにも莫大な賞金が懸けられていたから、彼を捕えて大金を我が物にしたいと手ぐすね引いているスペイン人たちが、兵士である無しにかかわらず、ペルー副王領やラ・プラタ副王領の隅々までひしめいているのである。
旅の道中、そのような者たちに決してアンドレス本人や関係人物であることを悟られぬよう、細心の注意を払わなければならない。
そんなわけで、アンドレスたちの今回の服装といえば、外見上はインカ族の貧しい平民たちのものではあるのだが、実際には、厳しい旅の最中でも持ち堪えられるよう、ひときわ耐久性や保温性に富んだものとなっていた。
例えば、見た目は簡素ではあるもののリャマの毛でしっかり織り込まれた厚布製のシャツとベストに、色褪(あ)せてはいるが頑丈な登山用ズボン、そして、その上には質素ながらも丈夫な毛織の長ポンチョ、頭には顔をかくすためのつば付きの帽子、さらに、革製の登山靴といったいでたちである。
ちなみに、この長ポンチョは、くるまれば寝袋がわりにもなるし、もちろん、ポンチョの下には、敵襲や野獣から身を守るための各自の得意とする武器も携えている。
砦の門前からしばし離れたところで、アンドレスは帽子のつばを引き上げ、ビルカパサの方に引き締まった笑顔を振り向けた。
「ビルカパサ殿、今回の旅支度もすっかりお世話になってしまい、かたじけなく思います。
おかげで、我々四人共、予定通り、無事に出発することができそうです」
アンドレスは愛馬の手綱を引きながら、ビルカパサに深く礼を払った。
そのような彼に倣(なら)うようにして、少し後ろを歩んでいた黒人青年ジェロニモとインカ兵のペドロも、ビルカパサに丁寧な礼を払う。
かたや、そんな三人から距離をとって、いかにも気が重そうに馬を引っ張っているスペイン兵のヨハンは、かたちだけチラリとビルカパサに目礼らしきものを投げ、すぐまた仏頂面を前方に向けた。
そうした中、ビルカパサは、「なんのなんの、当然のことです」と、逞しい笑みで応じつつ、旅立つ者たちに温かい眼差しを送っている。
元々、指揮官として戦場を馬で馳せていたアンドレスを除けば、ジェロニモもペドロも、そして、スペイン兵のヨハンも、皆、本来の所属は歩兵である。
歩兵とはいえ、臨機応変に様々な任務遂行を求められる厳しい戦況をくぐり抜けてきた彼らは、三人とも、それなりに乗馬も心得てはいた。
とはいえ、アンドレス以外は自分専用の馬がいるというわけではなかったので、今、彼以外の三人が手綱を握っているのは、体格面からも性格面からも、この過酷な長旅に耐えられそうな個体を、ビルカパサが吟味して厳選した馬たちであった。
それらの立派な黒馬たちに鋭い視線を馳せてから、ビルカパサが旅立つ面々に改めて向き直って言う。
「この馬たちの技量に問題は無いはずなんですが、アンドレス様をはじめ、ペドロ、ジェロニモ、そして、ヨハン殿も、皆、そのような服装ですから、馬ばかりがあまり目立っては、かえって危険かと……。
ですので、念のため、馬たちにも農耕馬用の恰好をさせています。
ご覧の通り、鞍(くら)も木材や布製の使い古したもので、一見、いかにも硬くて乗りにくそうで、無骨ではありますが。
ですが、見かけとは違って、長距離を走っても難は無いよう設計されておりますから、どうかご安心ください」
「ビルカパサ殿、本当に、何から何まで恩に着ます。
それに、もし木の鞍で多少の乗り心地の悪さが出てきたとしても、実際には、馬で移動できる距離は限られていますので。
なにしろ、旅の道程の多くを締めるのは山岳地帯なので、そこは、もう自分たちの足で行くしかないですから。
入山の起点となる麓(ふもと)までは、馬の力を借りますが」
礼を込めた眼差しで溌剌(はつらつ)と答えたアンドレスを見つめながら、「さようでございますな」と、ビルカパサも鷲鼻のきわだつ精悍な顔を頷かせた。
「道中、どうかくれぐれもお気を付けて。
アンドレス様たちが馬を置いて山岳地帯に入る際の、馬の預け先も打ち合わせ通りで」
「はい、承知しています。
ビルカパサ殿、何もかも、本当にありがとうございます!
それでは、そろそろ俺たちは出立を――」
そう言いかけて、前方に向き直りかけたアンドレスが、ハッ、と澄んだ琥珀色の瞳を大きく見開いた。
ビルカパサの背後にそびえる砦の方角から、明け方の藍紫色(らんししょく)の空を背景に、トゥパク・アマルの長身のシルエットが、こちらに向かってくるのが見えたからだった。
【登場人物のご紹介】 ☆その他の登場人物はこちらです☆
≪トゥパク・アマル≫(インカ軍)
反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。
インカ皇帝末裔であり、植民地下にありながらも、民からは「インカ(皇帝)」と称され、敬愛される。
インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。
「トゥパク・アマル」とは、インカのケチュア語で「(高貴なる)炎の竜」の意味。
清廉高潔な人物。漆黒長髪の精悍な美男子(史実どおり)。
≪アンドレス≫(インカ軍)
トゥパク・アマルの甥で、インカ皇族の青年。
剣術の達人であり、若くしてインカ軍を統率する立場にある。
スペイン人神父の父とインカ皇族の母との間に生まれた。混血の美青年(史実どおり)。
英国艦隊及びスペイン軍との決戦において、沿岸に布陣するトゥパク・アマルのインカ軍主力部隊にて副指揮官を務めていたが、急遽、トゥパク・アマルの密命を帯びて旅立つことになった。
≪ビルカパサ≫(インカ軍)
インカ族の貴族であり、トゥパク・アマル腹心の家臣。
トゥパク・アマルの最も傍近い護衛官として常にトゥパク・アマルと共にあり、幾度と無く命を張って主を守ってきた。
アンドレスの朋友ロレンソの恋人マルセラの叔父でもある。
≪ジェロニモ≫(インカ軍)
義勇兵としてインカ軍に参戦する黒人青年。
スペイン人のもとから脱走してインカ軍に加わった。
スペイン砦戦では多くの黒人兵を統率し、アンドレスの無謀な砦潜入作戦の完遂を補佐。
身体能力が高く、明朗な性格で、ムードメーカー的存在。
これまでも陰になり日向になり、公私に渡って、アンドレスを支えてきた。
≪ペドロ≫(インカ軍)
インカ軍のビルカパサ隊に属する歩兵。
此度のアンドレスの旅の同行者の一人(詳細は今後の展開にて)。
≪ヨハン≫(スペイン軍)
スペイン軍の歩兵。
偶然的な事情から、此度のアンドレスの旅に同行することになった(詳細は今後の展開にて)。
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