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テーマ:韓国!(16895)
カテゴリ:映画
サラ・ウォーターズ Sarah Waters「荊の城 Fingersmith」原作。
設定はヴィクトリア朝から日本の植民地下の朝鮮半島に変えられている。 秀子お嬢様(キム・ミニ) スッキ/珠子(キム・テリ) 藤原伯爵(ハ・ジョンウ) 上月(チョ・ジヌン) 佐々木夫人(キム・ヘスク) 叔母(ムン・ソリ) ボクスン(イ・ヨンニョ) パク・チャヌク監督『お嬢さん 아가씨 The Handmaiden』(2016年) (以下、映画の核心に触れる部分もございます) 5歳で外地に来た秀子は なぜ日本人なのに韓国語(朝鮮語)で話すのかと珠子に聞かれ 叔父 이모부(上月)に日本語での朗読を強制させられるから日本語はうんざりなの、 と答える。 支配する側、日本側の言葉である日本語は 日本人である秀子にとっても あたたかみある母なる語でもなく(母とは生後すぐ死別し母の話す日本語の記憶すらなく) 読みたくもない稀覯本(と称された春本)を男たちの前で朗読させられる (「朗読はほんとうに苦痛なのよ」) 恥辱の言葉、支配されていることを意識させられる言語でしかないのだ。 日本人・秀子の中にある、 ふたつの言葉への相反する感情、二重言語はミクロでは その時代を生きた秀子という女性のアンビバレントな身体性でもあり マクロでは 支配する日本と支配される半島の構造を表し、象徴もして興味深い。 そんな秀子が愛を交わす時の言葉は韓国語(朝鮮語)。 彼女を閉じ込め蹂躙した日本語は甘くも熱くもないのだろう... 二重言語に関して男たちは... 日本人になりきろうとする上月は一貫して日本語で通し 詐欺師は日本女性には日本語で「蠱惑的」と発音して口説こうとし 侍女には韓国語で「魅惑的だ」と囁いて蕩し込もうとする。 詐欺の手段、あるいは偽りの言語である、二枚舌の謂いのような日本語と対照的に ヒロインたちにとって韓国語は 真意や愛を語る言葉になっている。 (「詐欺師が愛なんて」) 二重言語の空間で選び取られたのは 秀子の母語ではない言語。 それはスッキの存在の大きさ、あるいはスッキとの愛の深さ真摯さを表すかのように (あるいは蹂躙された日々、歴史を反転して浮かび上がらせるかのように) 愛を語る言葉が韓国語だった、という言語的カタルシスも。 半島から駆逐されてしまう、滅び行く韓国語(朝鮮語)は しかし落ちて(堕ちて)行く姿ではない。 日本の支配下ではやがて秘められる言葉でもあるが... 朝鮮語は1938年度には随意科目に。 1940年度には総督府の教科書指定がなくなった。 1941年度には標準授業時間の定めまでなくなった。 封じられ、落下し地下に沈み行く、沈潜する言語のベクトルを 打ち消すような上昇「運動」(愛し合うこと...)の同伴者としての言語が 韓国語だった。 体の底から沸き起こる生と美への素手による希求の到達点は 秘め事は そんな封じられる言葉秘められる言葉を 侍女と紡ぎながら交わす愛を伴っていた。 秀子にとっては もっとも身体性ある言葉が秘められ滅び行く韓国語。 そんなふうに 当時のかの地を覆っていた二重言語の構造が巧みに生かされている。 また、メタに読み解くと 最近韓国で製作・公開されていた、 日本による植民地下の半島を舞台にした映画が 象徴・仮託するものを 今作も、より複雑な構造で包含している。 パク・フンジョン監督『隻眼の虎』で虎を狩り尽くす人々、奪う日本側と 滅び行く美として喪われ行く虎やマンドク(チェ・ミンシク)側が対比され 『愛を歌う花 해어화(解語花)』ではヨニが近代化の象徴で 奪い尽くす側日本の象徴である一方 ソユルは前近代的、伝統的価値観、 おせっかい親切にも与え尽くしてしまう側の象徴 として対照的だったように。 女性二人が、まるで 「日本」(支配的な男性性を象徴的に表したかのような日本、日本語)から自由になり独立するかのように、 Exodus エクソダス(出エジプト記)のように 脱出し出立するミステリ仕立ての冒険譚。 (視点を変えた三部にわかれたミステリ構造は原作通り) 植民地構造に 日本語の朗読で晒しあげられ屈辱の時間を強制される構造 「力づくの関係で快楽をおぼえる女」という 一方的で暴力的な男性の思い込みのフレームからも 搾取され続ける女性がついにその構造をぶち壊し(スッキが壊し) 新天地へ、船の行き交う大海原へ飛び出す。 『キャロル Carol』(トッド・ヘインズ)より熱く美しく幸せな結末だった。 ラブシーンも『キャロル』より踏み込んでいて 双子のように対等に悦びを与え合う全身のしなやかさがよく見えて美しい。 ただし、植民地の加害者側被害者側 男性と女性という二項対立だけではない。 彼らの生活は 英国式と日本が折衷された館に住み 外地で雇用した侍女はみな 朝鮮王朝時代の官女のようにひとつに編んだ髪に テンギ 댕기をつけ、スカートのように丈の短い韓服を身に着けている。 部屋の内装も身につけるものも 和洋折衷だが その中に半島で作られた螺鈿細工の小筐が置かれ 夜食には金色に鈍く光る真鍮の器 유기で冷麺をいただく。 まるで(官展に出品されていた) イ・インソン 李仁星が「窓辺」(1934年)で描いていたように 東洋と西洋、英国趣味と日本文化と半島の生活を行き来する アンビバレントな生が描かれてもいる。 あまつさえ、秀子の叔母が朗読するのは中国の官能小説「金瓶梅」。 春画は葛飾北斎の「蛸と海女」(個人的には渓斎英泉推奨!?) さまざまな文物に価値観が混淆する 当時の半島の様子、単なる二国間の文明、文化の衝突だけでもない モダンさと前近代性が共存もする時代の空気をよく表してもいた。 秀子が愛を交わす相手に韓国人(朝鮮人)を 愛を交わす言葉として韓国語を選んだとはいえ... 二重言語のアンビバレントさ、 グラデーションも微細に見れば単純な図式ではなく興味深い。 日本人になりたかった上月は 終始日本語で通すものの 最後になって藤原とは韓国語で話し 「차갑고 푸르고 妙に美しい」とちゃんぽんでも話す。 しかし、上月が 「朝鮮は醜いが日本は美しい」と言うと (「美は残忍なものじゃないか?朝鮮は脆すぎるから」とも) 藤原は 「朝鮮は美しいが日本は醜いと言った人がいる」と返す。 私は朝鮮の藝術よりも より親しげな美しさを持つ作品を 他に知る場合がない。 それは情の美しさが産んだ藝術である。 「親しさ」Intimacy そのものが、その美の本質だと私は想う。 (柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」) 済州島の作男が父である 一介の詐欺師が柳宗悦を念頭に置いていたのだろうか。 このような教養を身に着けていたとは... しかし、二重言語空間に生きる当時の人々の深く複雑な心理 アンビバレントな奥行きを示してもいた。 (あるいは、浅川巧も想起して...) 金の玉ではなく銀色の玉の鈴 2つずつ 双子のような陰陽のような(でも男女ではなく) 満ち欠けする銀色の月のような 巫堂が鳴らす銀の鈴のような 共鳴する、共に奏でる性のような... 船の上で波の上で愛し合う姿は 刹那的な頂点とは相違し 何度でも波のように押し寄せる女性のクライマックスを象徴もして 重なり合う波はさらさらと清らかな音を奏でる鈴に その波長、全ての波長、海の波、鈴の音の波長、 寄せては返すように何度も訪れる悦楽の波を重ね合わせる。 永遠に続くような悦びを映し出していた。 エンディングの背景の襖絵の満月が浮かんでは消えていたのも 女性の月のリズムと満ちては引くを繰り返す悦びを象徴しているかのよう。 エンディング曲は子守唄のような響きだったけれど... 原作のタイトル 原題のFingersmithは 指をつかう、という隠語で そんな隠微さとうらはらに パク・チャヌク版のタイトルにも いくつかのシーンにも、清新さが満ちてもいた。 例えば、屋敷を脱出し草原のような敷地を笑いながら駆けるふたり。 くすくす愉楽の笑いをもらしながら 同じようなほっそりした姿態で愛し合うふたりは ただ 自然と笑みの零れるような愛と快楽を知る「乙女」のような清らかさで お嬢さん、乙女たちの成長記の印象も。 敷地の端の石塀をひらりと越える時、 お嬢さんと侍女という身分の差だけでなく 国の違いも、という二重のギャップも乗り越え 唯一無二のバディとして旅立つ。 満ち欠ける月満ち引く波のように終わることなく押し寄せる 永遠の悦びを分かち合う新しい旅の同伴者としての余韻を 鈴たちの音色と共に残していた。 銀色の鈴は巫堂もつかう鈴の色。 聖性の余韻も残す。 生命は短く、藝術は長いと詩人は歌う。 しかし藝術に現れた朝鮮の生命こそは、無限でありまた絶対である。 そこには深い美がある。 美そのものの深さがある。 静かな内へ内へと入る神秘な心がある。 それは神殿を飾るに足りる藝術である。 朝鮮は、よし外に弱くとも、その藝術において内に強い朝鮮である。 厳然として自律する朝鮮である。 (柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」) パク・チャヌクらしいユーモアの多く散りばめられた今作は 笑いながら観ることも出来... 悪人のはずの藤原がお嬢さんに あまり感情のこもっていないトーンで 「となり空いていますかー」と空虚に、儀礼的に言って しれっとすぐ座る風情もハ・ジョンウの魅力があふれていて楽しかった。 (もっと熱入れてちゃんと演技しないと詐欺師ってばれるよね、と思いきや 別の視点、第2部で観ると...) 詐欺師の入れ子演技。 ムン・ソリの演技も Asian Film Awards 亜州電影大奨 アジアン・フィルム・アワード 助演女優賞にノミネートされていただけあり 時にパンクな表情をみせてカッコよかった。 余談ですが パク・チャヌク監督も登壇した本日の試写会で 成瀬巳喜男監督作品(『浮雲』など)で知られる高峰秀子をあげて お嬢様の名前「秀子」は 堂々と主体性ある高峰秀子からとった、と語っていたが... 別のインタビューでは 増村保造監督作品の 若尾文子も 想定していたと挙げていて... さて、どちらが...と思いつつ、 自分の意思を貫く女性としての「秀子」と ファム・ファタル的「文子」入り混じる、両面性ある女性の趣も... (秀子お嬢さまだけでなく、スッキも両面性あり、どちらにも当てはまる) 最後のシーンは ここまでの野生的色黒スッキと 本を守るため陽の当たらない屋敷で育った色白お嬢さまの 肌の色の対比が消え失せ... 体形も肌の色も同じように映り ほんとうに双子のようだった。 ゆえに フォンテーヌブロー派 École de Fontainebleauの 「ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人」を想起もしたり... Portrait of Gabrielle d'Estrées and Duchess of Villars School of Fontainebleau(c.1594) Public Domain 『イノセント・ガーデン』は 少女のExodus でビルドゥングスロマン Bildungsroman 的。 『親切なクムジャさん』は Exodus ならぬ出獄を経て人生を取り戻し 成人女性のビルドゥングスロマン的(復讐譚でもあるものの)。 そして『お嬢さん』は イノセント・ガーデンのような少女の物語でもなく 親切なクムジャさんのように大人の女性でもなく そのあわいの、乙女のExodus で愛を知るビルドゥングスロマン のバディ・ムービー。 ゆえに、美ブロマンス、とも呼びたい... Brown Eyed Girls ガイン GAIN 가인と MINSEO 민서によるエンディング曲 임이 오는 소리。 デュエットが美しい。 オリジナルは1970年代の歌謡、 이필원 イ・ピルウォン(男性) 임이 오는 소리 歌謡だがなかなかエッジがきいていて 子守歌のような余韻も...(*˘︶˘*) to be continued...!? buzz KOREA Click... にほんブログ村 韓国映画 にほんブログ村 映画 にほんブログ村 映画評論・レビュー にほんブログ村 韓国情報 にほんブログ村 K-POP にほんブログ村 Copyright 2003-2025 Dalnara, confuoco. 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Last updated
Jan 23, 2024 01:05:23 PM
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