巨星墜つ
一昨日、私の集落で「ある方」の訃報の知らせで騒然となりました。亡くなられた方は、地区のお寺の前住職。享年94歳でした。我が家ももちろんこのお寺の檀家です。大変博識な方で、日本史に非常に詳しく、また地区内の各檀家の歴史、そしてそこからの親戚のつながりを殆ど把握されていて、まさに地区の歴史の「生き字引」のような方でもありました。それに短歌もよく詠まれ、私の父が亡くなったときにも、病床の父と看病していたオカンの様子を歌にされて、それを短冊に書かれて頂きました。(今でも額に入れて飾ってあります)10年程前に住職を現住職(息子さん)に渡されてからも「老僧」と肩書きを持ち、高齢の檀家の方から「ご命日」の法要などに呼ばれることも多くあったようです。数年前からは高齢ということもあり、施設に入所されていたのですが・・・一昨日、御浄土に還られました・・・大変偉大な方でした。反面、頑固な一面もあり、少しでも自分の考えに沿わないと、相手の年齢関係なく怒鳴り声か響きました。そのため苦手な方もいらっしゃたのも事実です。実は私もちょっと苦手だったかな?私も保育園児の頃に大声で怒鳴られて泣きながら謝ったことを今でもぼんやりとですが憶えていますよ。もうかなり昔のことですが。・・・そう・・・かなり昔のこと・・・・・・そうなんです。私が物心付いたときにはすでに住職をされていて、当たり前のように法事や葬式に来られていて、当たり前のように大きな声で笑っておられ、当たり前のように怒鳴られて、そして当たり前のようにみんなから「ごえんさん」と親しまれていて・・・だから、亡くなられたと聞いたとき、「え?」って感じで、今でも何も実感が湧いてこないんです。また施設からひょっこり帰って来て、昔から聞きなれた「正信偈」をあげられるのでは?・・・いいえ、もうこの「当たり前」は無いんですよね・・・「悲しい」「寂しい」というよりは、なんだか胸にポッカリと穴が開いた・・・多分、地区の多くの人は同じ感覚ではと思います。まるで私の地区の大きな星の光が消えてしまった・・・そんな感じです。『それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。』(浄土真宗本願寺派第8世宗主 蓮如上人 白骨の御文)・・・謹んでご冥福をお祈りいたします。