山片蟠桃「夢の代」9月4日のブログで、前島密が漢字廃止論を言文一致の源流の一つとして紹介した時に、山片蟠桃(やまがたばんとう)もアルファベットの簡明さについて述べていることに触れた。山本正秀の「近代文体発生の史的研究」から引用したもので、山片蟠桃が誰であるのかも知らなかった。そこで、蟠桃についてネットで調べてみて、西暦1800年前後にこんな近代的な現実主義者がいたのかと驚いた。その号、蟠桃からも推測できるように、彼の本業は升屋という商家の番頭で、仙台藩など武家との商いもあり、武士と商人の両方の視点を持っていたのかもしれない。それに加えて、商人による商人のための儒学塾である「懐徳堂」で、中井竹山・履軒兄弟から儒学を学んでいる。天文学は麻田剛立から学んだ。彼のライフワークは「夢の代」と題され、その内容は天文、地理、歴史、経済など多岐にわたっている。今日は「夢の代」の中から、いくつか抜き書きしてみる。日本思想体系(43巻)の原文を基にして、日本の名著(23巻、責任編集 源了圓)の現代語訳(抄訳)を参考に、拙訳・意訳したものを載せる。<本居宣長批判>本居宣長は「古事記伝」で、仏教を退け儒教を排し、中国の書物の理屈で日本の神代の人知を超えた不思議さを論じるな、と騒ぎ立て、天照大神が太陽の化身で(皇室は)その天孫である、と主張する。(本居氏はさらに)伊勢の大宮は日輪(太陽)でいらっしゃるので、日本はもちろん高麗、唐土、天竺などあらゆる国々がこの神を拝して感謝するべきなのに、外国人たちはそんな道理も知らないとはあさましいことだ、とも述べる。こういった本居氏の論理は牽強付会ばかりだ。・・・ああ神道を学んで博学と見える人も、なんでこんなに愚かなのだろう。・・・天照大神が日本を照らすのは疑いないにしても、どうして全世界を照らすと言うことができよう。(「第三巻 神代 一、二」より) <西洋人の怖さ>欧羅巴(ヨーロッパ)の国々は外国を奪って自分の属国にし、代官を置いてこれを治め、諸国通商の便とする・・・彼らの底意(下心)を知っておかなければいけない。恐ろしいことではないか。(第二巻 地理 廿) <日本と西洋の比較>(1804年にわずか7、80人の従卒と、ペテルブルクから西回りコースで長崎に来て通商を求めた、ロシア人ニコライ・レザノフの「智術の逞しい」ことに触れた後)日本や中国の人は幼い時から字の勉強をするけれども一生かかっても全部知ることはできず、そのほかにも仏教、詩歌、茶の湯、謡曲、舞楽をはじめとして無用の稽古や諸芸諸術に日々を費やし、また自分の仕事の為に諸芸や諸行に努め、誠実に忠孝仁義を学ぶ、それほどしても身を修めることができない。まして、天文や地理などの事象の意味や道理の知識を得て通じることなどなおさらできない。・・・世界の諸国のおおよそのことも知らない。ただ自分の国の風俗や今の有様だけがいいのだと思い込み、天変地異や外国で大事が起きたら、どうしていいかわからず驚き怖れるだけで、漫然と日々を過ごしていくのは残念なことだ。西洋「欧羅巴」の人たちは、世界中を周り、天文(天空に起こるさまざまな現象)を解明し地理を調べ、世界全体の概要を把握し、忠孝仁義のことはもちろん、物の道理を極め知的判断力を高めることだけに没頭して、諸芸・諸術など無用なことに時間をかけることはせず、文字はたったの26字で、大文字、小文字、筆記体、数字など合わせて100字ばかりなので、10歳になるまでに全部習得して、その後は知識を深め物事を習うことに向かうので、知識・技術の幅広いことが理解できるだろう。(第二巻 地理 十九)なるほど、このような現実的で合理主義の考え方が、明治初めの前島密などの考えにつながったのか。 ウィキペディアの「山片蟠桃」の項は若干薄いので、少々肉付けしておく。とはいっても、ここにまとめたものはほぼすべて有坂隆道の「山片蟠桃と『夢の代』」(注1)を基にしたものだ。 まず、山片蟠桃の生い立ちについては伝説化したものがある。幼い時に大阪に出て、今橋三丁目河内屋与兵衛という両替商に丁稚奉公したが、読書好きのため肝要の用事に間に合わないことが何度かあり、ついに主人から放逐されたのを、同業の升屋平右衛門山片氏に拾われた。彼は家業にはげみ、次第に出世して、ついにその別家となり主家の姓山片氏を名乗り、升屋を称するようになった。 朝ドラになりそうなこの話の出典は、1910年(明治43年)に大阪朝日新聞に掲載された幸田成友の「升屋小右衛門」のようだ。幸田の書いた伝記は、それまでにはあまり取り上げられることのなかった山片蟠桃伝の古典となった。しかし、その後の研究によって「読書好きで放逐」や「升屋に拾われた」という話は間違いであったことが判明している。 現在の定説では、といっても有坂の文章は1973年のものでその後新説が出たかもしれないが、蟠桃こと長谷川惣五郎の祖父の兄弟の一人が大阪に出て升屋(山片家)につとめ、やがてその別家(長谷川家)として初代升屋久兵衛となっている。父長谷川小兵衛の兄二人が升屋の二代目、三代目を継いだ。1760年、13歳の時、蟠桃は伯父である升屋久兵衛の家を相続、17歳で元服後、四代目升屋久兵衛となった。 一方、升屋本家では、取引先諸藩の経済状態悪化の煽りを受けて経営危機に瀕していた上、相続問題がこじれ(よくある話で、男児がいないので養子をもらったがその後男児が生まれたとか)わずか8歳の重芳が家督を継ぐことになった(1771年)。ここに至って24歳の蟠桃が、升屋本家で重芳を後見し番頭としてリーダーシップをとることになった。蟠桃はどうやってこの危機を切り抜けたのだろう。 山片蟠桃の同時代人に海保青陵がいる。蟠桃を非常に評価していたという。青陵の「稽古談」(注2)や「升小談」(升小とは、升屋小右衛門とも呼ばれていた蟠桃のこと)には、蟠桃の商人としての発想の豊かさが書きとめてある。 青陵が指摘した蟠桃の妙計の一つは、さし米、正確にはさし米の費用を請求することだった。諸藩は資金調達のため農民の手元にある余った米を安く買い取り、江戸や大坂に廻して売り捌きたかった。そのためには買い取りのための資金と、廻米(かいまい)をしてくれる中間業者が必要だった。升屋は、蟠桃以前から仙台藩の米仲介をしていたが、ビジネスとしては多額の運転資金とリスクを伴ったと思われる。藩が米を買い取るための資金を貸すリスク、改め役を置いて廻す米を吟味する費用、海難による被害を補填する費用、更に凶作によるリスクがあった。そこで、蟠桃はさし米という吟味の作業過程に目を付けた。 さし米というのは米を吟味するときに、俵へさしというものを差し入れて、俵の中の米を見ることである。さしというのは、竹の筒で作ったもので、先端をそいで俵へ入りやすいように作って、俵へ差し入れるものである。このさしを俵へさすと、竹の筒の中へ米が入るから、右に述べたさしを抜いて手に米を受けて見るのである。(稽古談、現代語訳、p.374)蟠桃が仙台藩に願い出たのは、一俵につき一合の減り米をください、ということだった。この部分青陵の説明では次のようになっている。 さて米がこぼれるのは、さし米をするからである。だから、さし米というのは、いっこうに米が減らないようにはならないものだ。ところで升小の願いは、一俵につき一合のさし米ということである。一俵の米を三ヵ所でさしてみるから、一合の減り米が出る、これをさし米というのである。この一俵につき一合の減り米を升平に下さるように願ったのである。(稽古談、現代語訳、p.375)ここで「升小」は蟠桃、「升平」というのは升屋主人平右衛門のことだ。どうもはっきりしないのだが、「さし米」というのは、吟味の為に竹を差し入れることのはずなのに、ここでの書き方ではさし米によってこぼれ落ちる「減り米」を「さし米」と呼んでいる。多分、こういうことではないだろうか。「一俵の米を仙台、銚子、江戸の三ヵ所で吟味します、その時にこぼれ落ちる米(減り米)をおよそ米一俵につき一合として、私どもにいただけないでしょうか、吟味にかかるもろもろの費用に充当したいと思うのですが」と。 こういう風に話を持ってこられた藩の役人は、おそらく些細なことだと考えたのだろう、この願いはすぐに聞き入れられた。青陵が推察するように、年々二百両の費用を別途に要求してもまず聞き入れられなかっただろうに、一俵につき一合と言えば非常にわずかなことに思えたのだろう。当時の一俵がどのくらいの量だったのかはっきりしないが、仮に四斗(=四十升)とすると、四百合となり、手数料率は0.25パーセントということになる。青陵によると、このわずかな米が一年に六千両にもなったという。 さし米について青陵はこんなことも書いている、「大阪の貧しい庶民はこのさし米の時にこぼれる米を拾い集めて生計の足しにする、これは乞食のようなもので乞食でもない」。興味深いことに、さし米からこぼれる米を拾集める話は、青陵や蟠桃の著作より100余年前に書かれた、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の「波風静かに神通丸」という話にも出てくる。「米さしの先をあらそひ、若い者の勢ひ」(米さしの竹の先をふりまわしながら先を争って米の検査をしている若者の威勢のよさ)と大阪北浜の米市場の活況ぶりが描かれている。また、このさし米からこぼれ落ちる「筒落米(つつおごめ)」をある老女が二十数年掃き集めてへそくりを十二貫五百目もため、この金を元手に息子が両替屋で成功した話ものっている(注3)。ひょっとして蟠桃は西鶴を読んでアイディアを思いついたのだろうか。 注1 有坂隆道、山片蟠桃と「夢の代」、日本思想体系43 (岩波書店)所収、pp.693-728、1973年。この小論は、有坂が中井哲夫と共著した「山片蟠桃の研究」(大阪歴史学会「ヒストリア」所収、1951年)に基づいていると思われる。残念ながら、この論文は手に入らなかった。 注2 海保青陵、稽古談、日本の名著23(中央公論社)所収、pp.339-488、責任編集 源了圓、1971年 注3 井原西鶴、日本永代蔵、堀切実 訳注、角川ソフィア文庫、2009年 ジャンル別一覧
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