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中原中也との愛

「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」(長谷川泰子 村上護編)が文庫本として復刊された(角川ソフィア文庫)。単行本は1974年に出版されて、当時買いそびれた僕としては手に入れたい本であったが、古本屋で結構な値段がついているので躊躇っていたところだ。文庫版発売のニュースを見てすぐに購入したことは言うまでもない。

§表現座がつぶれたのち、中原も私のことを心配してくれて、「僕の部屋に来ていてもいいよ」といってくれたんです。・・・その言葉に甘えました。§

16歳の中也と劇団の稽古場で知り合いしばらくして同棲を始めた19歳の泰子は、中也には別に男性として魅力を感じていた様子はない。行くところのなかった泰子に救いの手を差し出した中也、その手を掴んだに過ぎなかった。

§・・・中也はある晩、私をおそってきたのです。そこのところは、みなさんから興味深く聞かれますがあまり話したくありません。・・・男と女がひとつ部屋で寝泊りしていたのですから、強*されたというのはおかしい・・・・中原の求めるままに、身体をまかすのはつらく感じました。§(楽天ブログの検閲に引っかかってしまったので「*」にせざるを得ませんでした。ここにはもちろん「カン」の漢字が入ります。)

早晩起こるはずの事が起こったわけだが、泰子の方にはそれでも中也に対する感情の没入があった気配がない。映画・小説や自分の経験からすると、こういう人間はあまり知らないが、関係があったからといって感情までもくっついてしまわない人間もいるのだろう。何と言うのか、泰子は自分をドラマ化しないタイプの人間だったのだろう。それはそれ、これはこれ、とはっきりと区別できたようだ。そして、中原の欲望を苦痛と感じている醒めた状態にあった。

こんな同棲だったから、小林秀雄が泰子に優しく接した時に強く惹かれたのも無理はない。

§「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」 二人で会ってた時など、小林はこういったこともありました。あの人はサービス満点といえばいいのかな、東京育ちですから野暮ったさがないわけです。その点、中原はほったらかして、私をあまりかまわない状態でした。そうなると、私はやっぱりやさしいほうに傾いていきました。§

こうして、以前日記で紹介したように(春の長門峡)、泰子は中也のもとを去り小林秀雄との同棲を始めた。中也にはしばらく一緒に住んだもの同士の馴染み以上の感情はなく、むしろ清算したい関係だった、と書いてある。小林はそのためのきっかけだったのだ(「小林に恋こがれて行ったというんじゃなく・・・」)。多分泰子という女性は男性に対する幻想はなく、風に揺れる小船のようにその時その時の状況や気分で靡いていったように思える。別に善いとも悪いとも思わないが、付き合う方としては非常に困難な相手で、中原中也は悲劇的にもこの女性に生涯振り回された節がある。とはいうものの、中也も康子について次のように書いている。

§私はちょうど、その女に退屈していた時ではあったし、というよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑していた時なので、私は女が去っていくのを内心喜びもしたのだったが、いよいよ去ると決まった日以来、猛烈に悲しくなった。§

泰子は神経症的なところがあり、小林との同棲でも小林を精神的・物理的に随分追い詰めた。中也との時はまだ病的な潔癖症は表れていなかったが、それでも多分手間の掛かる女性だったのだろう。中也も手を焼いていたようだ。

小林は泰子の神経症とかなり誠実に付き合ったが、ある日いざこざの果てに「出て行け」と小林を罵倒した泰子の言葉に、もう限界と思ったか千載一遇のチャンスと思ったかはわからないが、そのまま家を出で二度と戻らなかった。一種の依存症の地獄にあった二人は別れることでお互いを救ったようだ。泰子の潔癖症も一人になってよくなり、小林も未練なく文学活動に専念できた。

§小林がいなくなってからは、中原がよくわたしの世話をやいてくれました。時にはそれをわずらわしく感じました。それにしても中原と別れてからも親しくつき合ったのは、そこに何かの源泉があったからだと思います。私が文学の連中と親しくしたのは、動物の習性みたいなもので、帰巣本能が働いたのだといえるかもしれません。§

小林秀雄は事の経緯についてほぼ沈黙を守った。これは僕の想像に過ぎないが、彼は罪の意識に苛まれていて、語ることを潔しとしなかったのではないだろうか。手記の中に、「私が何故あいつが(中也)嫌ひになったかといふと、あいつは私に何一つしなかったのに、私があいつに汚い厚かましい事をしたからだ」というカラマーゾフの言葉をノートしているという(大岡昇平「中原中也」)。

その後、泰子は山川幸世という演出の仕事をしていた男から、不用意といえばそうなのだが、無理やり関係を持たれ、彼の子供を産むことになる。山川は左翼運動に入り泰子のもとから逃げた。中也だけは代わらず泰子とその子供の面倒を見続け、子供の名付け親になっている。

中也はどうして生涯泰子に付きまとったのか?これは仮説だが、彼は生来人を心底憎むことのできない性質だったのだろう。棄てられた当初はもちろん口惜しかったのが、その気持ちが醒めた時に泰子との関係は生の貴重なひとコマに思えてきたのだ。人々との関わりを軽々と忘れていく人間もいれば、一つ一つの関係を重く噛みしめる人間もいる。中也は後者であった。中也は「盲目の秋」の中でこう謳っている。

§ごく自然に、だが自然に愛せるということは、そんなにたびたびあることでなく、そしてこのことを知ることが、誰にでも許されてはゐないのだ§

人と人の関係は別に運命的なものではない。偶然が重なってある人と会い、どこかの部分で合う関係もあれば、生理的に合わない関係もある。もちろん、合う合わないは一方的なこともあるし双方向の場合もある。中也は泰子との関係を大事なものだと思ったのだが、泰子は特にそうは感じなかった。生活能力のあまりない女性だったので、中也は生涯彼女を助けた。そうすることで、「自分を棄てたことは間違いだったよ、泰子さん」と、(意識的にか無意識的にか)ちょっとした勝利の気分を味わっていたのかもしれない。見方を変えれば、泰子に棄てられたことに対する「口惜しさ」から一生抜け出せなかったのかもしれない。面倒を見ることの優越感でその口惜しさの炎に水をかけ鎮めていたのだろうか。

§・・・私が中原から離れていかなかったのは、重要な何かを育てるもと、源泉をもってる人と思ったからです。それを私は中原をふくめたグループでみるとき、思想の里というんですが・・・§

長谷川泰子という女性の感覚は、僕にはちょっとわからない。恋愛などで誰かにひどく拘るということはなく、ただ生活力のなさからあちらの男に頼りこちらの男と住み、という人生だったようだ。中也もその中の一人に過ぎなかった。

拘り続けた女性には結局受け入れられずさぞ無念だったろうけど、中也さん、いまだに僕のように貴君の人生や詩句に惹かれ続ける人間がたくさんいるんだから、幸せじゃあないですか?

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。
その時は白粧をつけてゐてはいや、
その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
(中原中也「盲目の秋」より)

(2010.5.13)


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