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一語楽天・美は乱調の蟻

もののあわれ(1)

さても困ったもので、僕は日本人でありながら若い時に日本を離れてその後日本文化にあまり触れてこなかったせいか、文化感覚とか知識が欠如している部分が少なからずあります。たとえば、日本人には常識の「もののあわれ」という概念です。外国人に説明してみろ、と言われたらしどろもどろで、しみじみとした情緒とか虚無感や無常観に基づいた哀愁、くらいにしか説明できないでしょう。

もののあわれ、というと本居宣長が<発見>したとよく聞きますよね。そこで大学の東アジア書庫に行き、唯一見つけた「本居宣長集」(新潮日本古典集成、日野龍夫校注、昭和58年)を借りてきました。しばらく行っていなかったら、日本語の本を置いてある書架がぐーんと圧縮されて、中国語が圧倒的に多くなっていました。これも時勢でしょうか、なんかさびしい。(このブログでは「もののあわれ」と現代語表記にし、宣長の文は引用書の表記通りとします。日野氏の校注では表記を適宜改めていますので、原文とは必ずしも一致しません。)
さてその見るもの聞くものにつけて、心の動きて、珍しとも、あやしとも、面白しとも、恐ろしとも、悲しとも、哀れなりとも見たり聞きたりすることの、心にしか思うてばかりはゐられずして、人に語り聞かすなり。語るも物に書くも同じことなり。さてその見るもの聞くものにつきて哀れなりとも悲しとも思ふが、心の動くなり。その心の動くが、すなはち「物の哀れを知る」といふものなり。(「紫文要領(しぶんようりょう)」、p.62)
さて「阿波礼(あはれ)といふは、深く心に感ずる辞(ことば)なり。これも後の世には、ただ悲しきことをのみいひて、「哀」の字を書けども、「哀」はただ「阿波礼」の中の一つにて、「阿波礼」は「哀」の心には限らぬなり。(「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」、p.284)
「あわれ」は最近では悲しいことだけに使われてるけど、もともと悲しみは「あわれ」の一つだと、宣長は言ってますね。悲しいことに限らず、心が動くことが「もののあわれを知る」ということで、「もののあわれ」とは、より一般的に「もの」がそれを見る・聞く・読む・触れる・嗅ぐ人の心を動かす作用ないしは影響力のようです。

宣長の同時代人であるジャン・ジャックルソーが1763年の「言語起源論」で似たような心の動きについて触れています、「我々はどのようにして憐みの感情をもてるのか。自分というものから出て心を、災難に見舞われてる人の心に同一化させることでだ」(英文から拙訳、Michael Marra、The Poetics of Motoori Norinaga、p.17)。西欧的な「共感」や「感動」と宣長の「もののあわれを知る心」は似てますよね。いったいどう違うんでしょう。

「紫文要領」は1763年、「石上私淑言」は1764年初め頃の作品、宣長、34、5歳のこと。この頃、宣長が強調したことは、もののあわれを知る心、つまりモノでも人でもその現象の内側にある心を見知る認識力、観察力が大切である、ということです。以下、この点に関して宣長の考え方がよく出ている文章をいくつか紹介します、但し僕なりの現代語訳です(誤訳もあるかと思いますが、大意は間違っていないと思います)。

他人が肉親などの死に会って非常に悲しんでいるのを見聞きして、さぞかし悲しいことだろうと推量するのは、悲しいに違いないということを自分が知っているからである。これが事の心を知るということである。その人の心の悲しみを自分の心で推量することがもののあわれである。悲しみの理由を知った時には、それを感じないようにしようと思っても我慢できないもので、自然とどうしても感じてしまうのだ。これが人情だ。もののあわれを知らない人は、こんな状況でもなんとも思わない。(紫文要領、前回掲載書、p.126)

仏道では、心弱くもののあわれを知るようでは修行を貫徹できない。強い心で人情を振り切っていくのが仏道である。・・・しかし、仏は深くもののあわれを知っていたので、妄執に捉われている凡人が、この世界の恩愛に縛られて生死を離れることが出来ないのを、不憫に思ったからである。儒学も同じように、もともとはもののあわれを知ることから起こったことだ。(紫文要領、p.136、[この辺りでは、まだ儒仏の考え方に若干の理解を示しています])

恋愛は人情の深くかかわることで、もののあわれを知ることが最も深い。(紫文要領、p.141)

源氏物語を勧善懲悪の観点から批評して、恋愛好きの人への戒めとするのは、的が外れている。・・・例の雨夜の品定めの件は恋愛好きの戒めに書いたのではない。源氏の君はますます恋愛好きの感情が募ってしまっているし、読者もそういう気持ちが増すことはあっても慎む気持ちなど出てくるわけがない。(紫文要領、p.163、166)

だいたい人のほんとうの心情というのは、女や子供のように未練がましく愚かなものだ。男らしくちゃんとして利発なのは、本当の心情ではない、それはうわべを飾っているだけだ。・・・それを恥ずかしく思って隠すか露わにするかの違いだ。中国の書物はそういったうわべを繕い飾ったものばかりが書いてある。(紫文要領、p.202)

宣長の漢意(からごころ)批判が出てきました。


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