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もののあわれ(3)

17世紀から18世紀にかけて、徳川幕府で重用された朱子学の理念、と同時に静かに進行していた朱子学批判の流れ、この関係の理解に欠かせないのは丸山眞男の一連の論文でしょう。肯定するにしろ否定するにしろ、日本近世思想について研究する人はまず、「かって丸山は・・・と書いた」などと一目置くのが常です。あるいは、より直接的に「丸山眞男を読みなおす」(田中久文、講談社メチエ、2009年)という本も出ているほどです。

その丸山の講義録が東京大学出版会から「丸山眞男講義録」として、1998年に第一冊、以降順次第七冊まで出版されています。丸山が生前に自ら選んでいた東京大学法学部での4年分の講義に加えて、彼の死後教え子で日本政治思想史研究者の4人が追加した3年分を、膨大な準備資料、草稿、ノート類、かっての講義聴講生の筆記ノートなどをもとに復元して出版したものです(7年とは1948年、1949年、1960年、1964年、1965年、1966年、1967年)。各冊3,456円から4,104円(300ページ前後)と決して手に入れやすい価格ではありませんが、一冊か二冊選んで手元に置いておきたいものです。

幸運にも、アメリカの一小都市である僕の街の大学図書館に、全7冊が購入されてありました。前にお話ししたように、最近では中国語の書籍に圧倒されているアジア書庫ですが、だれが選んでいるのか、とにかくよくやった、と讃嘆するばかりです。背表紙の金色の文字が、省エネで薄暗い書棚の間で鈍く光っているのを見つけて、心密かに民族意識を鼓舞した次第です。

というような脚注は置き去りにして、今日は1948年の講義録から「朱子学的世界像の分解」の章を咀嚼しながら自分なりに朱子学批判の歴史をまとめてみたいと思います。咀嚼自体の誤りもあるでしょうし、いずれにしてもここに書くことは丸山の1946年の思想からは逸脱しているだろうと思います。

江戸元禄-享保期に徐々に形作られてきた朱子学批判の背景にあるのは、貨幣・商業経済の成熟があるようです。(江戸時代、元禄まで100年足らず[1603年-1688年]、元禄ー享保は50年[1688年-1736年]、元文-慶応は130年[1736年-1868年])柄谷の巧みな表現で言うと、「その時代の欲望というものが、朱子学では捉えられないような形になって」きたのでしょう。武力で持って自分の存在根拠を確かめることも欲望を達成することもできない時代になり、金銭的に潤った商人階級が自分の存在と哲学を主張し始める。そんな時代には、理という本質理念があって、それに自分を合一させることを理想にする二元論からはみ出る部分が多すぎる。そこで、現実に合うような理念を模索し始めた、ということでしょうか。

こうした背景で、もののあわれ(4)で紹介した伊藤仁斎のような考え方が出現し、まず理があるという根本理念が壊れ始めるわけです。理は静的なもの、気は動的なもの、と理解することが出来るので、朱子学批判の一方向性は物事の動態的理解になり、ここから「天地の間一元気のみ」=宇宙的バイタリズム、経験的な人間性こそ実在するもので本来的なものではない、天理という超越的・静的なものの規制から逃れ人間の主体性の発現、抑圧されてきた人間の自然的性情の復権、禁欲主義の否定と人欲に対する寛容、などにつながります。

合理性が否定されるときに必ず注目されるのが、非合理性です。例えば、18世紀の西欧で啓蒙という考え方に反発する形で出てきたのが、ロマン主義という反合理主義であり感情中心主義の考え方です。この動きの一つは、もののあわれ(4)で見た、この時代の情を主とする文学・文学感だと思います。

丸山は、朱子学の理の批判が自然法的世界観の批判でもあった、と指摘します。一方で内的・心的な自然の復権を主張しながら、他方外的・超越的な自然は批判する、ということでしょうか。この点、ちょっとピンと来ないのですが、これは「自然」という一つの言葉で括ってしまってるからじゃないでしょうか。朱子学の理を、当時の日本の思想家たちが「自然」と考えていたかどうか。「自然」というよりもある抽象的で超越的で形而上学的な枠組み・規範と考えていたのではないでしょうか。そう考えると、自ら成る「じねん」という自然を重んじる思想に転換したということで、外面と内面の整合性が取れるのですが。


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