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一語楽天・美は乱調の蟻

ヒトゲノム・プロジェクトの官民競争

ヒトゲノム計画(Human Genome Project、Genomeは英語ではジーノムと発音する方が近い)が発足したのは1990年のこと。米国エネルギー省が提唱し、米国立衛生研究所(National Institute of Health)がこの分野での政治力を生かして乗っ取った。当初、15年での完成を計画してたが、予想もしなかった民間部門からの競争参入により、完成時期を早めることを余儀なくされ、結果的には官民ゴールラインへの歩調をあわせるようにして予定より数年早く2000年6月に、「初稿」の完成を見た。

ヒトゲノム計画の発足から官民の熾烈な争い、そして足並みをそろえてのゴールへ、その間のエゴとプライドのぶつかり合い、リスクを恐れない冒険心、巨額の利益と人類への私欲を捨てた貢献、物量作戦と才能のひらめきなど、一流のサスペンス小説以上にスリルに富むノンフィクションの作品「ザ・ゲノム・ビジネス(Genome War)」 by James Shreeve、これは絶対のお勧め。

ところでこの「ザ・ゲノム・ビジネス」という邦題はひどい。これではまるでビジネス本と間違えられる。内容は、人間ドラマあり、遺伝子工学についての解説ありで、若者の必読書にしてもおかしくない作品だ。

このノンフィクションの主役、クレグ・ベンター(Craig Venter)はもともと米国立衛生研究所の科学者だったが、こつこつと積み重ねていくタイプではなく、ひらめきのアイデアとそれを行動に移す性急さで勝負するタイプだった。初代のヒトゲノム計画を指揮した、ノーベル賞学者ジェームス・ワトソンにはじめは認められたものの、徐々にヒトゲノム計画とそれを主導する米国立衛生研究所から異端児扱いされ、民間の会社に下野する。

ベンターがまだ研究所員だった頃に思いついたEST(Expressed Sequence Tag)というアイデアは、言ってみれば、分厚い本(ゲノム)を一頁ずつ読むことに疲れたので、まず目次を眺めて重要そうな章なり節の始めと終わりだけを読んでいこう、というものだ。ゲノムは螺旋構造をした塩基の繋がったものだが、その多くは無意味または意味不明だったり、交通整理のためのシークエンスだ。ゲノムのほんの一部が遺伝子として発現される。発現された(Expressed)遺伝子の始めと終わりを読んでデータベースを作るのがESTだ。邪道の嫌いなワトソン博士がESTを嫌ったのが、ベンター下野の一因だった。

ベンターはこの後、ショット・ガン法という、これまた多くの主流科学者から眉をひそめられた方法に目をつけ、この方法の発案者ジーン・マイアーズという天才やそのほか幾人かの一匹狼たちを雇い、Celeraという会社を設立、米国立衛生研究所のヒトゲノム計画に挑戦状を叩きつけた。

いくつかの遺伝子関係の用語を僕なりに整理しておきたい。ゲノム(genome)、染色体(chromosome)、DNA、そして遺伝子(gene)。

染色体はDNAと蛋白質からできていて、細胞の核(nucleus)の中にある。普通の細胞(体細胞)は23対、つまり46本の染色体をもつ。染色体は1番から22番まで番号で呼ばれ、23本目は性染色体でXまたはYの二種類がある。性染色体もやはり対で存在するのだが、2本ともがXだと女性になり(XX)、XとYが1本ずつだと男性になる(XY)。なぜペアで存在するかというと、父親(精子)と母親(卵子)から23本ずつの染色体を引き継ぐからだ。(ということは、精子と卵子―生殖細胞という―は46本ではなく23本の染色体しかもってない。)

染色体はDNAと蛋白質からなるが、蛋白質は骨組みを作るだけで重要なのはDNAだ。1本の染色体の中には、2本のDNAが二重螺旋の形をして納められている。1本のDNAを1本のリボンとたとえると、そのリボンの上にA、T、G、Cという4文字がいろんな順序で30億個並んでいる。(注1)ATGTGCATAAGC...という具合に延々と並んでいるわけだ。

ATGCの連鎖の一部が遺伝情報を含んでいて、それが遺伝子と呼ばれる。ATGCの連鎖が情報を伝える仕組みが面白い。3文字が一つのコードになり、一つのコードが一種類のアミノ酸に解読され、アミノ酸が集まっていろんな種類の蛋白質を構成し、そして蛋白質が人体を作る。例えばGAGという3文字はグルタミン酸と解読される。AAGはリジンというアミノ酸と解読される。簡単に言うと、遺伝子とはDNAの中の意味のある連鎖の部分だ。

現在の推定では、ヒトのDNAには約3万個の遺伝子が入っていて、一つの遺伝子は平均3000個の文字連鎖でできている。ということは、DNAの30億個の文字列のうちのほんの3パーセントくらいが遺伝子ということだ。残りは無意味な文字列か、あるいはまだ意味のわかっていない部分ということ。

ゲノムというのは、23本の染色体の全体を指す。

1990年に米国のヒトゲノム計画が発足した時点では、完成の予定は2005年だった。プロジェクトはNational Institute of Health(NIH)の一部とされ、初代のプロジェクト長は、フランシス・クリックと共同で二重螺旋構造を提唱しノーベル賞をもらった、ジェームス・ワトソン。ワトソンが意見の違いを理由にプロジェクトを離れた後、1994年にフランシス・コリンズが後を継いだ。

コリンズが官側の主役だ。民側の主役はもちろんクレグ・ベンター。ベンターとコリンズはベンターがまだNIHにいた頃からの10年来の顔見知りだった。

1998年5月8日、ベンターは、その影の資本供給者パーキン・エルマー(Perkin-Elmer)社のトニー・ホワイトとともに、フランシス・コリンズを招いてこう告げた。

「フランシス、メディアで発表する前に、君に言っといた方が言いと思ったのでご足労願ったんですが。我々の考えでは、ゲノムプロジェクトの完成を後7年も待つのは長すぎると思うんです。パーキン・エルマー社と私は協力して新しい会社を発足させることに決めました。我々の計画は、新しいDNA自動解読機を使って、独自にゲノムの解読をしようというものです。君のプロジェクトとの大きな違いは、私達は2001年までに終える予定です、君のプロジェクトより4年早くにね。」

ベンターはどちらかというと気さくな人のいい人間なのだが、時として思ったことをあまりにも率直に言い過ぎるという欠点がある。このときも、一言多かった。

「我々はもちろん君のプロジェクトとうまく調整しながらやっていくつもりです。とにかく、やらなきゃならないことがいくらでもあるんですから。我々がヒトゲノムを終わらせる間に、君のプロジェクトはネズミをやればいいでしょう。」

この一言がどれだけフランシス・コリンズのプライドを傷つけ、後々まで尾を引くことになるかが、このノンフィクション「ザ・ゲノム・ビジネス(Genome War)」の核とも言える。

While we do the human genome, you can do mouse (我々がヒトゲノムをするから、君のプロジェクトはネズミをやればいい)というクレグ・ベンターの一言は、ヒトゲノム計画長、フランシス・コリンズのプライドをひどく傷つけた。しかし、コリンズが恐れたのは、ベンターの新会社の発表のもっと実際的、政治的な影響だった。民間の資金を使うベンターのプロジェクトが、何百万ドルという連邦予算を使っているコリンズのヒトゲノムプロジェクトよりも4年早くゲノム解読を完了しまうとすれば、DNA解読のことを何もわからない議員達は、民間の会社が自社の資金を使ってやるものに、国が金を出す必要があるのか?と言い出すだろう。そうすれば、コリンズのプロジェクトは予算を削減されるか、あるいは冗談ではなくネズミのゲノムをやる羽目になる。

それよりも何よりも、コリンズはベンターを信用してなかった。ベンターは1992年にNIHを辞めて、ベンチャー企業家の庇護のもと、タイガー(The Institute for Genomic Research)という非営利企業を発足させた。非営利企業とは言え、巨額の給料を受け取り広大な家に住み、百万ドルのヨットを購入しパーティをしょっちゅう開く、そんなベンターの生活スタイルと人間性を、連邦政府の官僚・コリンズは信じていなかった。

コリンズは思った。解読したヒトゲノムをどうしようというのだ。ベンターは無料ですべての人に公開すると言っているが、そんなことをしたら企業が成り立つわけがない。これにはきっと裏があるに違いない。現にベンターはNIHにいた時に、連邦政府のためとは言え、EST法で見つけた幾つかの遺伝子を特許申請したではないか。ヒトゲノムを解読し、その特許をベンターの新会社が独占したら、彼らは途方もない富を手に入れることになる。断固として負けるわけには行かない。大体ベンターの使おうとしている方法がうまく機能するわけはないのだ。

さてここで、ベンターが提案しているゲノム全体ショットガン法(Whole Genome Shotgun or WGS)とはどんなものか、コリンズのヒトゲノムプロジェクトが使っていた方法との違いは何か、僕の理解できる範囲で説明したい。

シリーズ第一回で、ジーン・マイアーズ(Gene Myers)がショットガン法の考案者と書いたが、ちょっと間違っていた。ゲノム全体ショットガン法は、1982年にフレッド・サンガー(Fred Sanger)考え出したものだった。ベンターの会社でこの方法を使ったジーン・マイアーズは、WGS法がヒトゲノムに適用できるということを1996年の論文に書いた学者だ。

ゲノム解読(つまりATGC文字列を読み取ること)を行う場合、まず物理的な制約がある。自動読み取りの(シークエンシング)機械を使うのだが、現在の技術では一度に読み取れる文字列の長さは500から1000文字が限度だ(500から1000の塩基対、base pairs)。ゲノム全体が約30億文字列なので、これはほんとに短い破片だ。問題は、機械が解読した後この数百万の破片をどうやって、一続きのゲノムに組み立てなおすかだ。例えてみれば、数百万ピースのジグソーパズルを組み立てるようなものだ。しかも、大部分は「青い空」ばかりで1ピース1ピースが見分け難いときてる。

パズルの組み立てには、大きく分けて二つの方法がある。一つは、最初にマップを作り、それからシークエンス。もう一つは、破片同士の重複をなるべく多くして、その重複の情報を元に組み立てる方法。マップというのは、既にシークエンスされている遺伝子の、染色体上での場所を特定することだ。マップを作成してから、その周りのシークエンスをしていくのが第一の方法だ。

実際には、二つの方法をうまくミックスして、解読に取り組む。フランシス・コリンズのヒトゲノム・プロジェクトはどちらかというと最初にマップ、次にシークエンスという階層的な方法をとった。その方が精度が高いと思われていたからだ。それに対して、ベンターの民間プロジェクトは、最新の機械を使い、多くの重複した破片を使うゲノム全体ショットガン法を選んだ。完成までの時間がずっと短くて済むからだ。もしも、全体ショットガン法がヒトゲノムにも適用できるとしたら、のことだが。当時の主流学者達の意見では、30,000以上の文字列のゲノムには、全体ショットガン法は使えないとされていた。

クレグ・ベンターは1995年に、H. Influenzaeというバクテリアの2百万の文字列の解読を完成していた。ヒトゲノムはその1500倍の長さだ。だが、やって見なければ結果はわからない。ジーン・マイアーズの論文は可能だとしている。こうして、ベンターの挑戦が始まった。


1.A、T、G、Cは実際にはアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4種類の塩基。


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