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翼の折れたエンジェル

K君は、この町の州立大学で修士を取得してやがて日本に帰って行った、僕より15ぐらい若い日本人だったが、最後の一年間の大学院の学費を捻出するために、僕のオフィスで働けないかと頼られ、何の権力もない僕であったが裏工作をして世話をした。まだそういうことが出来る古き悪しき時代だった。

日本人と付き合うことで一番嬉しいことは、古い日本の歌について語ったり歌ったりして、アメリカ生活の緊張をほぐしてくれるカタルシスになることだ。アメリカ人とでもボブ・ディランやビートルズを大声で歌って楽しくやることはできるのだが、そこに日本語の介在がないことは、やはり身体のどこかの筋肉がほぐれないような物足りなさを感じるのだ。これはきっと、脳の日本語部分と繋がっている身体のパーツが英語では刺激されないために起こるのだろう、などと勝手な脳生理学を考えて見たりもする。K君とは年齢が離れていたとはいえ、何とかいくつかの歌を共有することが出来た。あの歌はよかったよね、サビの歌詞はさ独特の表現で男心をしっかりととらえてるよね、という程度の他愛もない<共有>ではあるけれど、それは言葉によるコミュニケーションというレベルを超えた、いわば身体的な意識の繋がりを感じさせてくれる。

K君は高校時代にバスケをやったとかで、アメリカの公園に散在するバスケットボールのコートで、シュートの仕方を教えてもらいながらOne-on-oneで競い合ったものだ、もちろん僕がいつも負けたのではあるが。この町の夏は半端じゃない高温に達する、湿気はないから日陰に入れば日本の夏よりも過ごしやすいかも知れないが、バスケのコートの日陰と言えば、わずか10センチほどの幅のゴールの柱の影くらいで、30分も動き回ると半分脳が死んだ状態になる、そんな夏の日、半死の身体を芝生に投げ出して歌の話をしていた。

一番好きな歌は何かという話題になり、K君の場合はそれが中村あゆみの「ベイエリアの少年」だった。

「『翼の折れたエンジェル』は知ってるけど、『ベイエリアの少年』というのは知らないな。」

「いや、『エンジェル』の方はどうも悲しすぎて、一番好きな曲にはしたくないって言うのかな」

「悲しすぎる?」

「まあ、その、翼の折れたエンジェル、という歌詞が僕の挫折をあまりにぴったりと表現しているもんで、ちょっとこみ上げちゃうんですよ」

「ふーん、挫折ね、『ドライバーズ・シートまで横殴りの雨、ワイパーきかない、夜のハリケーン、I love you が聞こえなくて、口元耳を寄せた、二人の思いかき消す雨のハイウェイ、もし俺がヒーローだったら、悲しみを近づけやしないのに、・・・翼の折れたエンジェル・・・』、これにそんな思い出があるのか・・・ロスにいた頃というのは、いくつの頃だったの?『sixteen初めてのキス、seventeen初めての朝、少しずつため息覚えたeighteen』、これがぴったりする年齢だったの?」

「いや、コージーさんうーん、そんなにベタで歌詞と一致するわけじゃないですよ。そうじゃなくて、その曲を共有した人がいたと言うことでしょ、普通ある曲が心に残ると言うのは」

いやこれは一本参った、その通り、歌に限らず、誰かと共有した時間、場所、物品、音楽、それがその誰かを思い出させる連想となり、だからその時間、場所、物品、音楽が貴重なもになるわけだ。

「コージーさんもロサンジェルスにいたんですよね、僕もロスでコミュニティ・カレッジに行ってたんですよ」

「ああ、僕の妻も行ってたよ、サンタモニカ・カレッジ」

「ええ?嘘でしょ、そこですよ、僕の行ってたのも。だから、よくサンタモニカの海沿いの公園を走ったんですよ。夕方走ると綺麗なんですよね、夕陽が」

「そうだね、あれは確かに胸にしみるね。この曲を聞くと、それを思い出すっていうわけ?」

酒の飲めない二人が素面でこれ以上の話に入り込むというのは普通はないのだが、脳死状態だったということもあり、数ヶ月一緒に働いて信頼感も固まってきたということもあるのだろう、あるいは僕の付き合い方がざっくばらんというか仮面をつけないというか、アメリカ風だったので、それに引き込まれたのか、K君の話がパラパラと零れ始めた。

「実は僕、高校卒業してすぐにアメリカに来てサンタモニカのカレッジに入ったんです。なんか日本の学校に嫌気がさして、オチこぼれと言えばそうかもしれないんですけどね。なんか日本に反発してたなー、夕方サンタモニカの公園を走ると、日本人の観光客がバスで大量にやってきて、夕陽見てるんですよ。その人たちのことなんか憎らしくて、わざとぶつかるようにして走ってました、クソ、クソ、て呟きながらね。」

「気持ちわからなくはないな。僕だって脱サラだからね、いつか日本のやつらを見返してやりたい、なんて思ったこともあるよ」

「ですよね。それで、毎日走っているとけっこう顔見知りのジョガーも出来て、手を上げて挨拶とかするようになるんですよ。或る日、時々顔をあわせていた日系人の女性が、一緒に走らない、と声をかけてきたんです」

「気軽に声かけるからね、アメリカ人は、別にナンパするとかいうんじゃなくて、ごく自然なんだよね」

「そうそう、こっちも自然に、いいよっていう感じで受けて、それから週に二、三回、5マイルほどを一緒に走ることになっちゃったんです(注:5マイルは約8キロ)。彼女、10歳年上でしたけど、アメリカってそういうの気にならないじゃないですか、敬語もないし、すぐに友達になれるんですよね」

「そうそう、それは言えるね、ですます調じゃないからね。で、その人が『翼の折れたエンジェル』を共有した人なの?」

汗は引くどころか、ジリジリと焦げ付くような太陽が体中の水分を搾り出すようにして次から次に噴き出させてくる、そんな過酷な状況にもかかわらず、僕はK君とその日系人の彼女の行く先を、とにかく聞きたかった。

まるで僕が傍で聞いていないかのように、K君は組んだ手のひらに頭を休め、彼女の映像が走馬灯のように脳裏を駆けているのだろうか、眼を閉じたまま話を続けた。

「一緒に走り始めて二ヶ月か三ヶ月してからだったかな、走ってる途中で僕の右足の太腿がつっちゃったんです。彼女、なんの躊躇いもなく、僕の太腿を揉んでくれて、僕の方はあまりの激痛で、遠慮するどころじゃなかったんですが。なんかその時に、ある線を越えたような気持ちに、僕の方だけかもしれませんが、なっちゃったんです」

多分それは君の独りよがりだよ、と茶化そうとしたが、空気はすでにそういう雰囲気ではなかった。もう、相槌を打つことも必要ないような、K君の一人舞台が出来上がっていた。

「そんなことがあってから、ドライブとかショッピングとか一緒に行くようになったんです。Marian、ていうんですけど、彼女、Marian T*****、日系人といっても三世なんで、日本語ほとんど駄目なんですよ。僕とMarianの会話はいつも英語、僕の英語は下手だったけど、一生懸命聞いてくれて、発音を治してもらったりもしました。Marianの車は真っ白いVolksawagen Cabrioletのコンバーティブルでしたけど、それでパシフィック・コースト・ハイウェイをぶっ飛ばすんです。その時に聞いてたのが中村あゆみでした。『翼の折れたエンジェル』をMarianが片言の日本語で歌うんですよ、つ・ば・さ・の・お・れ・た・Angelって、エンジェルだけは英語で発音して。そんな彼女の横顔を見てるときが、僕の幸せの頂点でしたね。」



「お決まりのドライブコースはマリブのペパダイン大学でした。あそこの芝生に座ってマリブの海を見下ろしてると、世界が自分たちのものになったように感じるんです。で、やがて自然と恋人関係になっちゃったんですけどね。」



僕もあそこは行ったことがあるけど、とにかくゴージャスな眺めで、キャンパスの美しさだけでも、あの大学に入学したいなんて思う人もいるんじゃないだろうか。広大の太平洋を見下ろす別世界で二人だけの次元に入ってしまうのは理解できるけど、行くところまで行ったのに何がK君とマリアンを引き離したのだろう?

「問題がひとつあったんです、彼女は結婚してたんです」

「結婚してたって、君はそれを知らなかったの?」

「知ってました、走っているときに、夫が民事訴訟の弁護士だという話は聞いてました。でもね、コージーさん、知ってたからってどうなるもんでもないでしょう、恋する気持ちって」

「彼女は夫と離婚する気はなかったの?いまどき珍しくないじゃない、特にロサンジェルスでは」

「もちろんありましたよ、じゃなかったらMarianはいい加減な気持ちで僕と関係をもったりしないですよ」

「じゃあなぜ・・・・」

「Marianが、離婚への準備に夫との間に距離を持ち始めたからなのか、彼が何かで感ずいたのかはわかりませんが、彼に僕たちのことがばれました。それはそれでよかったはずなんですが、こいつは僕のような学生にMarianを奪われたくなかったんですね。プライドが許さなかったんでしょう」

「こいつ」という言葉が、K君があまりにも静かに口に出したためか、余計に凄惨な印象を残していった。

「弁護士だって言ったでしょ、この男は、僕のことを徹底的に調べたんです、僕が学費を稼ぐために日本食レストランで不法で働いていたことを見つけたんです。アメリカの移民法では、労働許可証なしで働くと、それが移民局の知るところとなると、強制送還になります。彼は、この事実で僕を脅したんですよ、Marianと二度と連絡を取るなって、取ったら移民局に通報するってね」

「汚いなー、それは。でも、Marianが君の後を追って日本に来ればよかったんじゃないの?」

「Marianのお母さん、たった一人の身内なんですが、彼女はリトル東京の老人ホームに入ってました、母一人そこにおいてロスを離れるわけには行かなかったんですよ。それに、コミュニティ・カレッジも満足に終えていない僕が日本に帰ってどんな暮らしが出来ます。最後に電話で話した時に、泣きじゃくる合間にようやく聞き取れる声でMarianは言ってました、日本に行きたい、いつかきっと行くから、K、待っててよって。でもね、アイツがいる限りMarianはどうすることも出来なかったんです、コージーさん、どうしようもなかったんですよ、アイツが、アイツさえいなかったら・・・」

僕は一人太陽に向かって立ち上がった、嗚咽を押し殺すようにうつ伏せになって震えてるK君の傍にいても、何も出来ないし、何の言葉もかけてやれない、「もし俺がヒーローだったら、悲しみを近づけやしないのに」か、そうだね、君の翼も折れちゃったんだね。

その後、帰国して別の女性と結婚したK君がアメリカの僕の家を訪ねてくれたことがあった。庭のベンチでコーヒーを飲みながら、あの日のような夏の日差しの中で、K君の一番好きな曲をかけてあげた、新妻の前で「翼の折れたエンジェル」を流してK君に泣かれても困るので、「ベイエリアの少年」の方を選んだのは言うまでもない。(2010.5)

(中村あゆみ、1985年の映像で、「翼の折れたエンジェル」です。)

(音とびがありあまり質はよくないですが、中村あゆみがもっと若い頃の貴重な映像、やはりユーチューブにありました、「ベイエリアの少年」です。)


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