吉本隆明の講演
2012年(平成24年)に亡くなった吉本隆明の講演をポッドキャストで聴くことができる。ほぼ日刊イトイ新聞(通称「ほぼにち」)が「吉本隆明の183講演」として公開しているもので、iTunesでもSoundcloudでもダウンロードできる。タイトルの通り183もの講演が載せられていて、短いものでも1時間、長いものでは3時間以上ある。音質の悪いものもあるが、押しなべてクリアである。吉本の話し方は、言葉を選んで自分の考えていることをできるだけ正確に話そうとしているのだろう、あまり滑らかではない。聴くよりも読むほうが好きだという方には、スピーチを文章化したものが「ほぼにち」サイトの各講演につけられている(文章化が進行中のものもある)。学生紛争の時代に青年期を通過した世代に大きな影響力を持った吉本隆明の本を、僕もいくつか読んだし、今も時々読むことがある。相撲界の貴乃花、野球の野茂英雄のように、人からなんと批判されようと自分の信じた道を行く孤立無援の姿勢、そして他人の受け売りではない独自の考え方を模索する努力が好きだ。しかし、本からだけでは、吉本の考え方をなかなか理解・吸収できない。そこで、講演のポッドキャストが、吉本の思想の要点を比較的わかりやすい言葉で伝えてくれる。たとえば、1968年に出版された「共同幻想論」という作品がある。僕も何度か挑戦したけれど、吉本の文章は非常に直感的で、凡庸な論理・分析的な読み方しかできない僕にはとても読み辛く、主張を全体的に掴むことができなかった。そこで、A010「幻想-その打破と主体性」(1967年の講演、残念ながら途中で切れている)というのを聴いてみた。いくつか、「ああ、そうなんだ」と納得することがあり、「共同幻想論」での吉本の考えの一部が理解できたように思う。あまりにも基本的なことなので、多くの吉本読者からは、何をいまさら、と思われるだろうが。その一つは、「幻想」という吉本の用語。これは、原本をしっかり読めば書かれてあることなのだろうが、講演でははっきりと、「一つの幻想性といいますか、観念性といいますか、皆さんの慣れている言葉で言えば、観念性ということですけど」(講演)と言っている。主観的な心象みたいなものか。とにかく、観念性と置き換えてもいいんだと、著者が言ってくれたので安心した。そして、この幻想性=観念性は、ある自然的な存在や形態(たとえば、自分とか夫婦関係だとか)が自己疎外したものだ、と吉本は言う。自己疎外というのは、ヘーゲルの概念で、「ある存在が自己の本質を本来的自己の外に出し、自己にとって疎遠な他者となること」(大辞泉)。僕の言葉でやや乱暴に言い換えると、元の存在の観念的ホログラムのようなもので、元の存在とは当然ズレている。たとえば、夫婦関係のようなペアの関係という幻想は、夫婦である二人が自分たちの関係に対して抱く漠然としたイメージ、のようなものか。これは対幻想の一例で、夫婦でも、兄弟・姉妹でも、親子の間でも、より一般的に、一対一の他者を意識する関係の間で成立する。一対一の関係に対して当事者たちが抱く観念的なホログラムと言える。対幻想の視点から、吉本はフロイトの思想を、「対なる幻想のうち、世代を異にする対なる幻想というものが、人間の精神構造を決定している第一要因である」(講演)と要約する。世代を異にする対幻想とは、父と子、母と子の関係に生じる幻想だ。世代間(時間軸上)に存在する対幻想に対して、吉本が注目するのが同世代(空間軸上)間の対幻想だ。同世代の対幻想でも、兄弟や姉妹の同性間の対幻想は永続性がない、親の世代が死ねば消滅する、と考えられる。これに対して、兄と妹、姉と弟の間の対幻想はかなり永続的で、これが対幻想を共同幻想に換える契機となる。つまり、このタイプの対幻想は、幻想の空間的拡大に耐えることができ、それゆえ、共同幻想へと発展することができる。異性兄弟姉妹間の対幻想が共同幻想として拡大する可能性を宿している、という点こそが、「共同幻想論」の第3章「母性論」で、吉本がアマテラスとスサノオを持ち出した理由だったのだ。つまり、人間社会に国家が発生するプロセスを考察するうえで、初期段階で対幻想が共同幻想へと転化したことを理論化したかったのだ。