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cozycoach.org/cccamerica.htm からの転載
昨年のクリスマスの夜にヒストリー・チャンネルで「Banned from the Bible」(聖書から締め出されたテキスト)という2時間のドキュメンタリーを観た。4世紀、コンスタンティヌス1世が召集したニケーア宗教会議の頃に本格化したキリスト教の聖典の編纂。そのときに異端(heresy)として排除されたいくつかの福音書、伝説、詩などを紹介した見ごたえのあるものだった。異端とされたテキストはキリスト教の正統にとって都合の悪いもの、矛盾するものだったのだろう。中でも特に興味深かったのは、マリア・マグダレン(あるいはマグダラのマリア)の福音書(gospel)についてだ。これによると、マリアは使徒(apostle)の一人、いや指導的な使徒の一人で、正典に記載されてるような端役の人物ではなかったという。キリスト教の不思議(1)でとりあげた「マリアはイエスの伴侶」という発想に近い。 「マリアの福音書」は現在までに3冊の写本が発見されている、3世紀頃のものと思われるギリシア語の2冊と5世紀頃のものと見られるコプト語の1冊。コプト語のものは1896年にカイロで見つかった。1945年に同じエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書には「マリアの福音書」は含まれていなかった。面白いのは、3世紀の写本によれば、マリア・マグダレンの指導者としての地位は使徒たちに受け入れられていたが、彼女の教えについて男性使徒達との間に食い違いがあったことが覗える。それが少し下って5世紀の写本になると、彼女の地位自体が男性使徒から挑戦を受けているように書かれてある。つまり、正統キリスト教の確立期200年ほどの間に、マリア・マグダレンを継承者と考えるグノーシス的(Gnostic)な信仰・思想が異端として徐々に排除されてしまった、という仮説が成り立つ。マリア・マグダレンは男ばかりの12人の使徒とともに重要な使徒であり、イエスの後継者、あるいは伴侶だったかもしれない女性だった。その「事実」が、男性中心のカトリック教会の確立とともに、歴史から消されてしまったようだ。マリア・マグダレンと男性の使徒ペテロやアンデレとのいざこざについてはナグ・ハマディで見つかったトマスの福音書、ピスティス・ソフィア(Pistis Sophia、信仰と知恵)、エジプト人の福音書にも記載されている。これらのテキストも聖書には入れられなかった外典である。ここに「マリアの福音書」の概略がまとめられている。マリア・マグダレンこそがイエスの継承者だと考える、そういう信仰をグノーシス的と上に書いた。グノーシス(Gnosis)については回を改めて更に追求することになるが、正統キリスト教が排除・抑圧した異端とは主としてグノーシス的な信仰であったようだ。グノーシスとは何か。ちょっと脱線するが、無神論者(atheist)という言葉に対して、西欧ではもう少し柔らかい宗教懐疑主義者というレッテルがある。辞書では不可知論者と訳されている agnostic と言う言葉だ。アグノスティクは神の存在を肯定も否定もしない、どちらも証明できない、という立場だ。この言葉は「a」という否定の接頭語と「gnostic」が一緒になったもので、「gnostic」ではないという意味で、「gnostic」はギリシア語の「知る」という言葉に由来する。アグノスティク、知ることの出来ない、という意味になる。話をグノーシス主義に戻すと、Gnosisとはこのギリシア語の語源から「知る事ができると考える者の信仰」ということになる。「知る」といっても分析的な知識の知るではなく、「僕はあの人を知ってる」というときに使われる、直感的・直接的な「知る」である。「知る」対象はもちろん神だ。グノーシス主義者は、神を自分の五感で知ってるあるいは知ることが出来る、だから神を知るのに仲介は要らないと考える。つまり教会や牧師などの権威は必要ないのだ。これに加えて、マリア・マグダレンという女性をイエスの後継ぎとするなど、男性中心のユダヤ教に由来する正統キリスト教には堪えられない。なるほど、キリスト教会の確立にグノーシスが邪魔だった理由がよくわかる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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