一語楽天・美は乱調の蟻

2005/03/28(月)16:59

ボビー・フィッシャーを探して

ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)がボリス・スパスキーを破り世界チェスチャンピオンを勝ち取ったのは、1972年アイスランドのレイキャビクでだった。旧ソ連の独占状態にあったチェスの世界チャンピオンを初めてアメリカにもたらした、アメリカの英雄だった。そのフィッシャーがアメリカ政府から追われる身となり、逃亡生活の果てに無効のパスポート(アメリカ政府が無効にする処置を取っていた)の為に成田空港で逮捕され、8ヶ月の間拘留されていた。そして今、アイスランド政府がフィッシャーに救いの手を差し伸べ、市民権を与えることを議会で決め、ついに日本政府もフィッシャーを米国に強制送還せずアイスランドに送り出した。 母子家庭に育ち、6歳でチェスを覚え、7歳でブルックリンのチェスクラブに入り、13歳の時(1956年)史上最年少で全米ジュニア選手権に優勝(8勝1敗1引き分け)、同じ年、アメリカでもっとも有名なチェスのイベント、Rosenwald Competitionに招待され、その時の Robert Byrd との対局で見せた駒捌きは「今世紀最高」と言われた。この対局を見てソ連のグランド・マスター、Yuri Averbakh はソ連の覇権に対する脅威を感じたという。 1958年1月、わずか14歳でフィッシャーは全米チャンピオンになった。アメリカはソ連と同様一つのゾーンとして認められていた。全米チャンピオン、つまりゾーンチャンピオンは、インター・ゾーン戦への参加資格がある。フィッシャーはインター・ゾーン戦に進んだ。 インター・ゾーン・トーナメントで5位タイに食い込んだフィッシャーは、史上最年少でグランド・マスターの称号を授与され(この記録は後にJudit Polgarというハンガリーの天才少女に書き換えられる)、挑戦者ラウンドに進んだ。インター・ゾーン・トーナメントの上位8人が挑戦者ラウンドに進むことができ、勝者は世界チャンピオンに挑戦できる。この年の挑戦者ラウンドの優勝は Mikhail Tal、17歳のフィッシャーは Tal には4戦全敗した。世界の王者にはまだ手が届かなかったが、ティーンエージャーがここまでの成績を残すとは誰も予想していなかった。 世界チェスチャンピオンという名称が「正式」に使われ始めたのは1886年だった。とは言ってもこの時点では公式の団体も無く制度的には整っていなかった。周到な分析をもとにした近代的なチェスというのは恐らくソ連の Alexander Alekhine から始まった。そして1946年に彼が死んだ時、近代的な制度(FIDE、世界チェス連盟)のもとに世界チェス選手権も公式なものとなった。 この新しい制度のもとでは、世界チェス選手権は(だいたい)3年のサイクルで戦われる。世界はいくつかのゾーンに分けられ、それぞれのゾーンから決められた数の棋士がサイクルの1年目に行われるインター・ゾーン・トーナメントに進める。サイクルの2年目には、インター・ゾーン戦の上位数名の棋士が挑戦者ラウンドを戦う。8人の棋士が各4試合づつ戦う、精神的マラソンのようなものだ。サイクルの3年目に挑戦者ラウンドの優勝者が世界チャンピオンに挑戦する。 ところで、チェス界が旧ソ連棋士の独占状態にあることは先に触れたが、なぜ旧ソ連がそんなにチェスに強かったのか?旧ソ連は、労働者・軍人の質を向上させ国の威信を高める為チェスを奨励する政策をとった。1924年には政府の中枢部にAll Union Chess Sectionが設立され、チェス興隆のための5ヵ年計画が実施された。1923年には僅か1000人だったチェスの登録選手が、1929年には15万人、1951年には百万人、1960年代中頃には何と3百万人に膨れ上がっていた。その結果Alexander Alekhine の後 Mikhail Botvinnik、Vasily Smyslov、Mikhail Tal、Tigran Petrosian、Boris Spassky という棋士達が世界の王座についている。もちろん現在も活躍している Anatoly Karpov と Garry Kasparov も旧ソ連の出身だ。結局、地盤が広ければ広いほど天才が出現する確率が高くなり、旧ソ連のチェス奨励制度がその地盤を提供したということか? 「戦争ゲーム」というめくらチェスの話から、ボビー・フィッシャーの話に飛んでしまったが、彼の偉業と異形についてもう少し続けようと思う。

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