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福澤諭吉が勝海舟と榎本武揚を批判した文章を書いている。明治24年の冬頃書かれ、福澤の死の直前、明治34年に時事新報に発表された、「瘠我慢之説」である。このサイトで読んでみた。
一個人、一家族、一共同体の利益の追求と保全の必要は「私」的な動機に由来するものだが、それが国家という「公」の成立してくる基盤になっている。国家が成立し、国家と国家が相対する情勢になると、国家レベルでの外に対する私というものが、うちに対しては公となる。忠君愛国という観念はもとはと言えば私的な感情だけれども、国家間の関係では忠君愛国が国民最上の美徳とならざるを得ない。 戦争においても平時の国際関係においても、自分の国が衰えたとえ勝算がなくても、「瘠我慢」をして国を支えることが必要だ。大病を患って死にかけの父母を、安楽死をさせるよりも、力尽きて死に至るまで万策を尽くすのが子としての情である。戦国時代で言えば、大国の間で瘠我慢をしてついには徳川幕府を立ち上げた三河武士の士風がその理想である。明治35年に出版された山岡鉄舟の「武士道」とともに、「瘠我慢之説」は、明治中頃から「武士道」が倫理道徳の意味合いを帯びて登場してきた典型とされる。福澤は、理路整然となぜ瘠我慢の必要性を持ち出してきたかと言うと、勝海舟と榎本武揚が、元幕臣にもかかわらず明治新政府で要職を占めているのが気に入らなかったのだ。勝海舟は、三河武士のような瘠我慢が足りず、まだ十分に戦力のあった幕府を見捨て、江戸城無血開城を断行した。それは人命を助けるためだったと言う理由でよしとしよう、しかし投降した相手の新政府の職に就くとは虫が好かん、と言うわけだ。 福澤の批判に対して、勝は「從古當路者、古今一世之人物にあらざれば、衆賢之批評に當る者あらず。不計も拙老先年之行爲に於て、御議論數百言御指摘、實に慙愧に不堪ず、御深志忝存候。行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候」と答えた。こういう文章は英語を解釈するより苦手なのだが、多分、自分の行動のよしあしは自分で決める、それをどうこう批判するのは他人の勝手だ、おれの知ったことじゃないよ、と言う内容ではないかと思う。 ちなみに、榎本のほうは「昨今別而多忙に付、いづれ其中愚見可申述候。先は不取敢囘音如此に候也」(そのうち自分の考えを述べたいが、今は忙しいので失礼)と答えた。その後返事を書いた形跡はない。 勝の言葉から題名を取った「行藏は我にあり」(出久根達郎著 文春新書)という本があることをこのサイトで知った。サイトによれば、「出久根達郎は、この一件について『居直つた』勝が好きであり、『逃げた』榎本も好きだと云ひ、のみならず、彼らを批判した『青つぽいところのある』福澤も好きだと云ふ。」 これが勝の居直りかどうか調べたわけではないが、僕の理解する勝海舟は弁解したり正当化したりする人間ではなかったように思う。だから、特に居直った(急に態度を変えて高飛車に出る)、というのではなく、もともとこういう考え方なのだ。自分の行動は他人の批評で左右されるものではなく、自分の判断で決める。 勝海舟の時代を超越した見識・行動のうちで、僕が一番すごいと思うのは、他人の目から左右されない自立した行動基準だろう。 江藤淳が書いている。「勝の偉いところは、愛されようとは一度も思わなかったこと。何を言われようがいいんだということですね。」愛されようとは思わない心、これが自立の行動を支えてるのだ。もちろん、表裏一体を成しているのは自分の判断に対する自信、というのがあるが。 もうひとつ、勝が福澤の批判に対してまともに反論しなかった理由は、おそらく勝にとって福澤の論点は、政治と倫理をごっちゃにした議論で、反論する以前の問題に映ったからではないだろうか。 実は、勝と福澤は1860年に咸臨丸で同船していた。1858年に日米修好条約が締結され、日本からアメリカに特使を派遣することになり、ポーハタン号に乗った正副使節を護衛するということで、軍艦奉行の木村摂津守喜毅(艦長)、勝海舟(指揮官)、福澤諭吉(木村の従者)、ジョン万次郎ら日本人96名が咸臨丸で随行した。 原文にあたっていないのだが、、「福翁自伝」には、勝はすごく船に弱く航海中は病人同様だったという。勝自身の談話に由れば、「ちょうどそのころ、おれは熱病をわずらっていたけれでも、畳の上で犬死するよりは、同じくなら軍艦の中で死ぬるがましだと思ったから、頭痛でうんうんいっているをもかまわず、・・・咸臨丸へ乗り込んだよ」(氷川清話)、とある。あるいは、木村摂津守と夫人の談話に由れば、勝は自分が艦長になれないことに不満で拗ねて船室に閉じこもっていた、という。いずれにしても、長崎で鍛えてきた勝が船酔いしたというのもおかしいので、おそらく福澤の意地悪な眼差しだったのではないだろうか。 *「行蔵」の意味は出処進退のことなので、自分の行動の責任は自分で決める、というほうが正しいかもしれない。議論の波長が合わない相手にはこういう傲慢な言葉もいいかもしれない。 参考 「海舟の極意」 (池田弥三郎、江藤淳 対談、日本の名著 第32巻付録 1978年) 「戦場の精神史」 (佐伯真一著 NHKブックス) 明治期の武士道についての一考察 (船津明生 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/4/4-02.pdf) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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