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僕は、日本人といっても言葉を読み書きできるだけで、日本の多くの人が拘る文化性というものをあまり身につけてこなかった。小泉首相の公式参拝で物議をかもしている靖国神社についても、戦死者を祀ってあることくらいしか知らなかった。Alexさんの日記、Wikipedia、そして高橋哲哉の「靖国問題」(ちくま新書)などを少しかじって見て、二つほど興味深い点があったので、書き留めておきたい。
まず、靖国に祀られている240万余柱は、満州・支那事変そして大東亜戦争の戦死者だけでなく、明治維新以来の数々の戦争の犠牲者が含まれている。もちろん数としては大東亜戦争の戦死者が圧倒的に多いが。少ないとはいえ、台湾出身者、朝鮮出身者、そして女性も合祀されている。 ところが、高橋氏によれば、靖国神社に「天皇の軍隊」の敵側の死者が祀られた例は一つとしてない、そうだ。例えば、戊辰戦争で新政府軍と戦って斃れた旧幕府軍の犠牲者、8000人余りは靖国には合祀されていない。祀られていないどころか、会津戦争などでは、会津藩側戦死者3000人の遺体は、新政府軍によって埋葬を禁じられ、放置された。 ここで重要なのは、靖国神社は天皇のために死んだ人たちを祀る所、という点だ。僕の世代を含めて、今の多くの日本人は天皇制の国家に生まれたわけではない。天皇制の時代の戦死者をある私的な神社が祀るのなら、それは自由である。しかし、天皇制の死者を祀る神社を現在の国家元首が公式に参拝すると、少し無理がある。小泉首相は、アメリカのブッシュの無謀さと同様、既成事実を作ってしまって新しい「慣習」を捏造しようとしているのだろう。力はやがて歴史の事実になってしまうから、それもありかもしれない。たいしたことじゃないじゃん、という見方もあるだろう。過去のいくつかの悲劇は、多分そうやって些細な非合理から始まったのに違いない。小さな非の積み重ねが太平洋戦争やホロコーストを引き起こしたのだろう。 靖国に祀られていることを望まない人たちがいる。台湾や朝鮮の出身者で靖国に合祀されている人たちの遺族は合祀取り下げを訴えた。(5万人の旧植民地出身者のうちどれだけの遺族が取り下げを訴えたかは知らない。)日本人で、プロテスタントの角田三郎牧師も、靖国に祀られている二人の兄の合祀取り消しを要求した。 合祀取り下げは、靖国神社によって一貫して拒否されている。 池田権宮司によれば、「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われたのであるから抹消をすることはできない」そうだ。 つまり、靖国神社に祀るという事(死者の招魂をして神として祀る)は天皇による天皇の為の行為だということだ。一般的な戦死者の栄誉を讃えるための行為ではない。遺族への哀悼とか共感を表明する行為では、もちろんない。 靖国とは一言で言うとこうなる。天皇と国家が一致していた時代の兵士・国民が、天皇(=国家)の為に死ぬことを喜びと感じることのできるように「改良」する、巧妙な加工設備の中核と言える。 戦死者を悼むという国民にとってごく自然な行動を、機能的に非常に問題のある天皇制というシステムの中核を形成した「場所」で行おうとするから問題があるのだ。日本国の歴史でたかだか130数年前に編み出された天皇のための招魂・合祀というシステムくらい、捨ててもかまわないのではないだろうか。それを整理したうえで、国民として戦死者を弔い、さらに東アジアの犠牲者にも哀悼の意を表する、ということはできないものだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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