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靖国神社(そして靖国参拝)に対する姿勢を図式化すると、大きく二つのグループに分けられるように思う。まず、宗教や国家意識などの共同のアイデンティティに属さないと自我の安定しない人達、あるいはそういう共同のアイデンティティが大事だと考えている人達が一方にいる。他方、宗教も国家意識もあまり重要でないよ、それよりも日本は近隣のアジアの国々と、よく言えば仲良く、悪く言えば彼らの眼を気にしながら、やっていくべきだという人達がいる。
ここでは、前者を国家意識派、後者を他者志向派と呼ぶことにする。内向きと外向きの差と捉えてもいいだろう。プライドを重視する人達と誠心誠意を強調する人達との違いとも言える。 国家意識派は、日本に愛国心を取り戻したい、日本国民の求心力となる観念を再興したい、国として民族としてのプライドを持てと主張する。それ自体はちっともおかしなことでなく、世界中の国がやってることだろう。むしろ、戦後のあまりの豹変で国家意識をかなぐり捨てた政治や教育が行き過ぎだったのかも知れない。 だから、中国や韓国が首相の靖国参拝を非難することに対して内政干渉だといい、戦後の東京裁判は勝者の敗者に対する一方的な裁きだから無効だと主張する。国家としてのプライドを持て、いつまでもへこへこ謝ってんじゃないよ、と怒るのだ。 東京裁判が無効だからA級戦犯も存在しない。彼らを含めた戦没者は国家の為に犠牲になった人間だ、どこの国でもそうした犠牲者を国家的に弔うではないか。なぜ日本だけが(ドイツもしてないが)国家の犠牲者に対する敬意を表せないのだ。と、国家意識派は異議を申し立てる。 次に、他者志向派、彼らにとって、大東亜戦争中の大日本帝国の行為は民族としての恥でアジア数千万の犠牲者に申し訳ない、と考える。もちろん、卑劣な行為に駆り立てられた日本国民も犠牲者だ。そして、この一連の行為は天皇の名のもとに、天皇を中枢とする国体の護持のために行われた。 他者志向派にとって、靖国神社は天皇中心の国体を国民に植え付けるための一機構で、明治憲法、天皇の統帥権の独立、教育勅語、国体明徴論など、天皇親政による軍国主義化の流れの一部とみなされる。 このように考える他者志向派にとっては、靖国神社に首相が公私に関わらず参拝することは、解体したはずの過去の悪しきシステムの一部を蘇らすことになるから、どうしても許せないのだ。これが単なる機械部品ならいざ知らず、宗教的、道徳的な国体観念は、いわば有機体のようなものであるから、また国民の心を蝕んでいく、と恐れるのだ。大多数の人間はそんなにバランス感覚や免疫能力のある生物ではない。ホロコーストや南京虐殺やベトコン虐殺やその他の幾多のジェノサイドに平気で加担してしまう、もろい生物なのだ。だから、戦争を起こし悲惨な結末を招いた戦前の観念体系を蘇らすべきではない、と他者志向派は考える。 他者志向派は、戦前の日本を自分のアイデンティティの拠り所とは考えない。できれば、それ以前の日本に求めたいのだが、そこまで体系的ではない。いっそ、アイデンティティなどいらない、それよりも近隣諸国の眼差しの中で自我を形成していけばいいではないか、と感じているのかもしれない。 ここまで両陣営の考えをできるだけ客観的に羅列してみた。このように二極化してみて、次回に僕自身の考えをまとめてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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