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大相撲春場所は毎年3月大阪で開かれる。優勝力士に贈られる大阪府知事賞は、大阪府知事が土俵上で手渡すのが普通だろう。ところが、大相撲では女性が土俵に入るのを禁じるという伝統があり、現在の大阪府知事が太田房江さんという女性ということで、府知事による土俵上での手渡しが困難に面している。伝統を楯に相撲協会は太田知事が土俵に上がることを拒否しているのだ。已むを得ず、大阪府では知事代理人に男性をたてて知事賞をわたしている。
土俵の内側は聖なる領域で、出産や月経の血のために不浄とみなされた女性は聖の領域には入れない、というのが彼らの理屈だろう。女人禁制という伝統による時代錯誤的としか言いようのない相撲協会の姿勢、これ自体は全くトリヴィアルなことで、議論する価値もない。固い頭がやがて解氷されて柔軟な対応ができるようになるのを待つだけだ。 僕が面白いと思うのは、土俵という境界線を引くことで内側と外側に異なった空間ができると考える、人間の不思議な心理だ。 僕達は世界の諸事を二項対立で捉える傾向がある。内と外、聖と俗、男と女、善と悪、正と邪、魂と肉体、本音と建前、など。二項に分けるというのは結局境界線を引いて、世界を二つに分けることだ。(注 1) 二分された世界には優劣がつけれらる。一方が他方より優れていると見做される。聖は俗より、男は女より、聖は邪より優れていて望ましいのだ。こうやって世界の中に階層秩序を捏造するわけだ。「捏造」と書いたのは、まず第一に二分割自体が人間の側から見た恣意性でしかないこと、そして第二に、分割されたものの一方が他方より優位に置かれる理由もまた恣意的でしかない、からだ。 なぜこんな恣意的なことをして秩序を作り上げるのか?世界を分割する態度は、良くも悪くも人間あるいは生物の本質だと、僕は思う。こうやって生きていくのが生物なのだ。この能力なしには生き延びれない、と言ってもいいだろう。 もともとは生物の生き残りの戦略として、環境を「好き、嫌い」に分割することから始まったのだろう。 アメーバ様の単細胞生物で真性粘菌というのがいる。エサがなくなるとアメーバが集まって接合して一つの多核細胞という変形体になる。巨大なアメーバとなった真性粘菌の変形体は、外界に対して「好き、嫌い」の反応を表す。「好き」な場合はその刺激に対して接近し、「嫌い」な場合はそれを避ける。真性粘菌の接近・忌避反応は、刺激を受けた細胞の部分から波を使って細胞全体に伝達する。刺激を受けた点から波が全体に広がっていく、と考えればいい。そして波が動きに繋がる。(注 2) 単細胞の生物でさえ、この様に世界を好きと嫌いに分割する。そもそも、生物の発生自体が世界の分割だ。 混沌とした一様な世界に生命が発生した。生命は細胞膜という境界線で、生体内と外を仕切った。外部に比べて生体内は秩序が高い。エントロピーという概念を使えば、エントロピーが低い(エントロピーはランダムさを表す)。 何もしなければ、秩序は無秩序へと解体する。つまり、エントロピーは増大するのが自然の法則だ。この法則に逆らうのが、生命活動だといえる。常にエネルギーを取り込んで生命体という秩序を維持する。そのためには、世界を自分の生命活動に都合のいいように分割し、ポジティブな方の世界から刺激を受けエネルギーを吸収する。 だから世界の二分割は、生命体の存在の根源といえるだろう。 注 1 柳田国男は、ハレとケという二分割の間にケガレという概念を置いた。ケガレとは、ケとハレの境界上の状態で、境界線をあいまいにする。ケ自体よりも、ケガレの方が嫌悪される。 注 2 粘菌の行動については「感性の起源」(都甲潔著 中公新書)を参考にした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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