カテゴリ:カテゴリ未分類
独裁者フランコに対して最後まで抵抗したのはバスクの人々だった。イベリア半島を数世紀にわたって占領したイスラムに対して最後まで食い下がったのもバスクの人々だった。彼らは別に民主主義を守るためとかキリスト教を救うために戦ったのではなく、バスクの地の独立を守りたかったのだ。
現在もバスク人の独立の闘いは続いている。すべてのバスク人がこの考えに同意しているわけではないが、スペインからの独立を目標とするバスクの民族主義過激派グループETAの破壊活動はしばしばニュースに登場する。 ETAはEuskadi Ta Askatasunaというバスク語の略で、Euskadiはバスク、Askatasunaは自由、「バスクと自由」という意味だ。もともとはフランコ独裁政権に抵抗する地下組織で1952年に結成された。当初はATA(Aberri Ta Askatasuna、祖国と自由)だったが、1959年にETAと改称した。 バスクの地(バスク語でEuskal Herria)はスペインの北東部に位置し、東にフランスとの国境(一部のバスクはフランス領に入る)、北は大西洋の一部カンタブリア海(あるいはビスカヤ湾)に望み、南はエブロ河で仕切られる、バスク地方はビスカヤ、ギプスコア、アラバ、ナバラ、ラボールド、ソウレなどの地域からなる。面積はおよそ20,000平方キロ。関東地方の半分ほどの広さだ。 バスク地方の中心部をピレネー山脈西部が貫通し、下に掲載したサン・セバスチャンの町を海側から取った写真でわかるように、海岸近くまで山岳地帯が伸びている(クリックして拡大、リンク先は英語のウィキピディア)。 バスク語(Eusakara)はその起源がまだ不明だ。他のヨーロッパの言語は殆どがインド・ヨーロッパ語系だが、バスク語とフィン・ウゴール語だけは、その起源が異なる。 バスク人がどこから来たか、誰も知らない。長くまっすぐな鼻、濃い眉毛、頑強な顎、長い耳、厚い胸、幅の広い肩、がっしりとした体躯、などの身体的特徴から、クロマニョン人のの末裔という説もある。血液型にも特徴がある。O型の人口が50%以上で世界中で一番高い。更に、Rhマイナスの比率が37%と極端に高い。(Rhマイナスは流産の確率が高く、それが原因でバスク人の人口の伸びが低いとも考えられる。) セルバンテスの「ドン・キホーテ」にバスク人が登場する。ドン・キホーテは二人のベネディクト派の修道僧と4、5人の従者を従え馬車でセヴィルに向かうバスクの女性に出会う。Vizcayanと書かれてあるが、Vizcayaはバスクの一地域で、この女性はそこの出身、つまりバスク人だ。 例によって、誇大妄想狂ドン・キホーテは、この一行を黒衣の魔術師にさらわれた美しい姫と思い込み(実際はこの二組の旅行者は連れではないのだが)、襲い掛かる。ドン・キホーテの愚行に立ち向かうのがスペイン語もまともに話せないバスクの男だった。「馬車を行かせろ、じゃないと、俺、お前を殺す、俺、ビスカヤの者。」二人の戦いはこの後長々と続く。頑固で引き下がらないバスク人、という当時のスペイン人の抱いていた固定観念だろうか。 「ロランの歌」という叙事詩がある。当時のスペインはイスラムの支配下にあった。711年に西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を手にしたウマイヤ朝の勢力は、現在のフランスに当たるフランク王国を脅かしていた。フランク王国のシャルルマーニュはイベリア半島に反攻し、相次ぐ勝利の末バスクの地を通ってフランスに帰る際、奸臣ガヌロンの裏切りで、シャルルマーニュの甥で右腕のロランとその親友オリヴィエが戦死するという悲劇が「ロランの歌」だ。 シャルルマーニュのイベリア半島侵攻は778年だが、「ロランの歌」は第一次十字軍の頃(11世紀)に書かれたもので、反イスラムのプロパガンダ色が濃いでっちあげだ。「ロランの歌」のもとになった事件は実際にあったが、ロラン(Hruodlandusという武将であったという考証もある)を襲ったのはアラブではなくバスク人だった。バスクの地を通過してフランスに帰る途中で、パンプローナを襲撃・略奪したシャルルマーニュ軍に腹を立てたバスク人が、峠の松林で待ち伏せしたのだ。 バスクの土地を侵すものはイスラム教徒でもキリスト教徒でもお構いなく排除する、それがバスク人のメンタリティのようだ。(もっともこの事件のときは、バスク人はまだキリスト教に改宗しておらず、古くからの太陽礼賛の民だった。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|