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「何か御用なの」と三千代は漸くにして問うた。代助は、ただ
「ええ」と云った。二人は夫れ限で、又しばらく雨の音を聴いた。 雨の音で外界から遮断された空間、その空間に過ぎた時間を呼び戻すために白百合の花の香りを充満させ、車で呼び寄せた平岡(旧姓・菅沼)三千代に、長井代助は切り出す言葉を探していた。それが、夏目漱石の「それから」の後半に置かれたこのシーンだ。 Yokohamaで友人と久しぶりの夕食をして、お互いの近況などを知らせあった後、漱石の「それから」の話になり、「それから」の映画のことに触れた。松田優作と藤谷美和子が主演、森田芳光が監督した1985年の作品である。映画が出た当時、ロサンジェルスでビデオを観たことがあるのだが、ビデオの質の悪いこともありあまり印象に残っていなかった。これを機会にじっくり観てみた。 原作では、代助に呼ばれた理由を三千代が三度訊ねるこのシーン、映画ではすんなりと一度目でそれも落ち着き払って代助は答えている。 「まあ、ゆっくり話しましょう」 僕が監督なら、松田優作は起用しなかっただろう、暗く落ち着いていて、原作の代助に感じる、時にうろたえるような未熟さ、と言うか世間知らずさ、あるいは地に足がついていない雰囲気がない。例えば、原作の冒頭で、代助は、夜明けにふと眼が覚めた時に右手を心臓に当てて胸の脈を確かめるような、「生きたがる」人間として描かれている。父の庇護のもと、職も持たずに読書や観劇に明け暮れ、一軒家に住み書生と婆やに世話をしてもらうという、高等遊民なのだ。(映画にはこのシーンはない。) 三千代を演じる藤谷美和子はどうだろう。彼女の演技はどうも余りに素人っぽい時があり、いくつかの重要な科白に取ってつけたような不自然さが拭いきれない。もっとも、その素人っぽさがなんとも魅力的だという人もあるかもしれないが。とにかく、原作のイメージからは大きくずれていると思う。 今は友人の細君となっている三千代、かっては恋人に近い感情を抱いていた女性だが、友人の失職で生活は貧困し自然と夫婦関係も綻んできた、その上体調を崩している。こうして代助の中によみがえった恋慕、憐憫の感情を抑えきれず、三千代に告白するために呼び寄せたのが、後半のこのクライマックスだ。 代助の告白を聞いた三千代は泣き崩れる、「あんまりだわ」・・・あの時「何故(私を)捨ててしまったんです」・・・「残酷だわ」と、三千代は以前に何故打ち明けてくれなかったのかと代助を責める。 そして、ここが非常に劇的なのだが、数分間のやり取りの後、 「仕様がない。覚悟を決めましょう」 と言い放つのだ。 ああ、この時の藤谷美和子の科白を聴いて、バベルの塔も摩天楼も名古屋城も崩れた!世間知らずの代助が、情熱にほだされて告白した、云わば美しい恋の物語の一章を書き終わり、次の章で突然現実の奈落に落とされたのが、原作のこの科白なのに、その劇的なフォルテッシモが、彼女のこの演技で台無しになってしまった。 もし僕が「それから」を映画化するなら、何をテーマにするか?単に、不如意な三角関係の解消を甘いロマンチシズムで上塗りしても仕方ないだろう。そんな映画はごろごろ転がっている。代助の能天気なところをあちこちに挿入しながら、三千代の「仕様がない。覚悟を決めましょう」という言葉で慌てふためくところを、それとなく描いてみたい。恋愛の成就の物語として描くのではなく、頭で描いた筋書きが成就してしまった時の滑稽さなどを程よく混ぜてみたい。 森田芳光の映画は、映像的には斬新で強く引かれる。原作の風味を掬い取ったか、僕の視点では失敗と言わざるを得ない。 しかしそれにしても、三千代という妹的存在を象徴化したような女性を、勝手な思い込みで友人のところに嫁がせ、困窮しているのを目の当たりにして恋情を復活させ後先も考えずに行動に移した、長井代助という世間知らずは、なんとも、ロマンチシズムに溺れる数多の男性を思い起こさせるではないか。もちろん僕はこういった現実離れした阿呆な行動が嫌いではないが、迷惑な話ではある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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