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一語楽天・美は乱調の蟻

2019.09.19
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「お疲れ様でした。今日は***堂のモンブランを買ってきました。ジュン君は何を飲む?コーヒー、紅茶、緑茶?」夕香ちゃんの授業が終わると、紫さんはおやつを出してくれ、僕たちの日本古典文学の時間が始まるのだった。「ジュン」というのは僕のペンネームのようなものだ。下宿生活を始めてから僕は、今までの自分を消し去りたくて、別の名前それも苗字ではなく名前で呼んでもらうようにしていた。要はカッコつけだ。

前の週に、紫さんからここを読んでおくようにと言われた部分は、若紫巻の中ほどに位置する。光十八歳の時、北山の紫の上をもらい受ける計画は暗礁に乗り上げていた。そこに唐突に挿入されたのが、「藤壺の宮、なやみ給ふことありて、まかで給へり」、藤壺は病気で里に下がった、と始まる件だ。この時の光の心情は次のようだ。
上のおぼつかながり嘆ききこえ給ふ御けしきも、いといとほしう見たてまつりながら、かかるをりだに、と心もあくがれまどひて、いずくにもいずくにも参(も)うで給はず、内にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば王命婦(おうみょうぶ)を責めありき給ふ。
(例によって敬語は無視する)上とは桐壺帝、つまり、帝が寂しがり嘆いている様子を見て、光はそれを気の毒だと思うけれど、こんな機会は二度と来ないのだし、思い焦がれ迷いに迷い、他の女のことはもうどうでもよくなり(こちらの女のところにもあちらの女のところにも行かず)、職場に行っても自宅に帰っても、昼間はぼうっと中空を眺め、夜になると王命婦という藤壺付きの女房に、逢瀬を手引きしてくれるようにしつこく頼み込む。

もうちょっと砕いて言うと、御主人(帝であり父)が、奥さんのことを心配で心を痛めているのはまあ気の毒だけど、彼女が里帰りして一人でいる今は、僕にとっては千載一遇のチャンスだし、逢いたくて逢いたくて心がふわふわ揺れてる、仕事も手につかないし、ナンパした他の女には連絡を取る気も起きない、こうなったら、彼女の世話をしているおばさんに泣きついて何とか彼女の部屋に入れてもらおう、とこんな感じだろうか。

これはなんとも衝撃的だった、同じ十八歳でも、こちらは庶民、それも高校時代は制服の襟はきっちり留め制帽も目深に被るという堅物だった未成年には、憧れの女性とは言え、父親それも天皇の愛妻(の一人)に手を出すというのは、まったく選択肢の一つには入ってこない。

王命婦がどんな手段を講じたのかは描かれていない。しかし結果は数行あとに書かれてある、「何事をかは聞こえつくし給はむ、くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短(みじか)夜にて、あさましう中々なり」とある。二人の話は尽きず、いつまでも暗いというくらぶの山(鞍馬山の古名か?)なら夜が長いので宿を取りたいものだけど、夏の夜は短く、中途半端で情けないことだ。

二人は一夜を共にしてしまったのだった。それはないだろう、訝しく腹立たしくそして羨ましく、紫さんが出してくれたモンブランの粉を口から飛ばしながら訊ねた、女性とはこういう行動を受け入れてしまうんですか、と。

「ジュンくん、ここには重要な一文があるのよ、見落とさないで」と紫さんはやや厳しい声で指摘してくれた。
「宮もあさましかりしをおぼし出づるだに世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむ、と深うおぼしたるに・・・」(藤壺は、思いもよらなかったあのことを思いだすだけでも、この世の続く限り悩みの種なのだから、あれを最後にして終わりにしよう、と心に深く思っていたのに)。
え?では、二人はこれが初めてではなかったのか、以前にも密会していたのか。この文章の意味をよく理解していなかった。「もうこれっきりにしましょう」という藤壺の言葉は、現在の逢引きに向けられたものではなく、「そういうふうに深く思っていた」という過去形の決意だったのだ。もうやめようと思っていたのに、ここで何の因果か彼がやってきた、彼女には拒むことはできなかった。でもそれは何の弁解にもならないし、では初めての過ちはどうやって起きたんだ。過去の密会のことは桐壺、帚木、空蝉、夕顔の巻にはどこにも書かれていないのだそうだ。

僕の疑問は同じですよ、紫さん、この頃の女性というのは完全に受け身で、状況に関係なく求められれば受けるという態度だったんですか?紫さんは興奮した子犬をなだめるように微笑みながら、「そんなことはないわ、確かに男が訪ねてくるのを待つ受け身が中心だったけど、帝であり父親の妻の一人だからね、普通はありえないでしょうね。でも・・・」と紫さんは一息ついた。

紫さんの考えでは、この出来事は物語の進行上必要だった。まず、後の紫の上である少女の獲得を座礁させ、そこに藤壺との不倫を再燃させる、その結果光のさらなる昇進を可能にしかつ挫折させるもう一つの出来事が起きた。ということは、僕が唐突だと思い込んでいた藤壺とのエピソードは、作者・紫式部にとっては必然だったのか。昇進と挫折?まるで謎々のようだ、それはおいおいわかると紫さんは言う。仕方がない、今晩のところはここで矛を収めるしかない。もう議論する元気も残っていない。藤壺事件を知って僕のイノセンスはガラガラと崩れ落ちてしまったのだから。帰り道の自転車で、未熟な青年の心に張り付いていた、女性を理想化する厄介な性癖が剥がれかけていた。まったく汚れちまった悲しみだ。

やむごとなき男にー
白浪のよるには靡く靡き藻の靡かじと思ふわれならなくに(和泉式部)






最終更新日  2019.09.19 09:42:56
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