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戦争映画でよく描かれる行動倫理、戦友が傷を負った時にはできるだけ見捨ててはならない。アメリカのプロスポーツで、チーム・メイトが相手チームに傷つけられたら(たとえば、野球の死球やバスケのハード・ファウル)、そのチーム・メイトを守る、これも同じものだ。同胞は守らなければならない、という行動倫理は、多分古代の共同体を維持するために築きあげられた規範で、それが共同幻想となり、文化となり、遺伝子に刷り込まれてきたのだろう。
僕と同い年で最近ガンが見つかった友人が、ある日突然、奥さんから離婚を言い渡された。20数年、仕事上も協力し合って、順調なカップルだと思っていた僕は、言葉を失った。現時点では命に別状はないものの、手術を受けたばかりの<同胞>をなぜこの時期に見捨ててしまうのか。僕が仮に同じような状況になったとしたら(憎み合っているとか暴力を受けているとかではないと仮定して)、とても相手を棄てることはできない、と思う。たとえ、その人を思う気持ちが薄れていたとしてもだ。 しかし、こんな感傷はゴミ箱に投げ捨てて蓋をする時代が来たのかも知れない。 なにしろ、コロナが広がる前にすでに、現アメリカ大統領は新しい行動倫理を「提唱」していた。一つ、ホントとウソの境目はもともと曖昧なものだったが、いまやその違いは完全に消滅した。諸君、もう気にすることはない、嘘は堂々とつけば真実となるのだ、昨日のウソは今日のホント、豹変しない君子はもはや君子ではない。二つ、キミたち国民の利益は私の利益であり、私の利益は私と私の家族の利益である。名分は国民、大義は私にある。その三、権力の構造というのは神の恩寵による存在の連鎖であるからして、下から上への忠誠は絶対であり、諫臣は処刑され、忠臣は大義(つまり私)の犠牲になるのが使命である。大統領が模範を示しているのだから、このミーイズムこそがこれからの時代を牽引する原動力となること間違いない。 ここにコロナというピリ辛味を加えてみよう。もはや、共同体の同胞は、守らなければならない対象ではなく、感染のリスクでしかない。私たちはお互い慣れ親しんではいけない、握手はもちろんハグなどというものは前時代的なセクハラもどきである(セクハラはもどきではなく毅然としてやらなくてはいけない)、マスクをして歩けば道ですれ違う他人に笑顔を見せる必要もない、オキシトシンが出るような行動は極力避けなければならない。ミーイズムに加えて共同体のメンバー同士を疎遠にさせる、新たな行動規範が形成されつつあるのだ。 これを進化と呼ぶ。進化とは種族を維持し・繁栄させるためにある、というか、突然変異した部分の中で残っていくものだけが進化なのだ。そこに善悪はなく、美醜があるのみ。何億という人々と多くの国々が醜にまみれる。 ガンを患う僕の友人は、同居人にとっては老後の生活における経済的リスクかつ介護リスクでしかない。ミーイズムとコロナ・モードが席巻する世界では、捨て去られる運命にある。いや、僕だって同じことだ、古い行動規範を期待して横柄な口を叩いていると、ぬれ落ち葉だか散り椿だか知らないが家庭ゴミとして処分されかねない。戦々恐々、暗雲低迷。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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