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前回、他者をモノと見る例をいくつか見た。そこで共通していたのは、他者がその全体性・個別性・独立性を失って捉えられていることだった。今回は、どうして人間の心がそういう方向に向かってしまうのか、考えてみたい。
まず注目したいのは、心あるいは意識が自分の外にある対象を捉える時、それは対象そのものではなく対象の像だということ。対象が人間である場合、その内面を(正確であろうと間違っていようと)再現するには、想像力に似た心の能力が必要になる。思うに、empathy(共感とか感情移入)がその能力ではないか。 sympathy、compassionも似たような言葉だが、sympathyは特に他者の悲しみや困窮などに同情を示す時に使われることが多く、compassionは他者の不幸を気遣って手を差し伸べたいと思う時などに使われるのが主なのに対し、empathyは他者の状況や感情を感じ取ることを指す。本居宣長の主張した「もののあはれ」を知る心について以前取り上げたことがあるが、empathyに通ずると思う(本居宣長)。 empathyをここでは共感力と訳そう。人間(や一部の生物)が世界の中で社会的に生きるために、共感力は進化してきたと考えられている。ある外的なモノが心のようなものを持っていて、私やその他の存在物に対して何らかの意図的な態度(intentionality)を示すかどうか、これを判断する必要があった。意図的態度は音声や言葉、表情、涙、身振り、などから推測される。内容は、敵意や親しみのこともあれば、何かを欲しがっているかも知れない、あるいは、私がそのモノに何らかの願をかけた時にそれを適えてくれること、それも意図的態度と言える(注1)。このように他者の行動の意味を探ること、それが共感力の起源だと考えられる。 共感力に欠けている人というのは、もちろんたくさんいる。たとえば、ナルシシズムの強い人、つまり、自分のことしか考えることができない、常に自分が褒められることを求める、自分を守るために自らの非は絶対に認めない、自分のイメージを壊さないことを重要視する、そういう人は共感力が薄い。また、あるレベルの自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorder、ASD)を持っている人は、共感力が低いと観察されている。これは共感力が脳の特定部位に備わっていて、その部位の機能的な問題が共感力を低めている、と仮説されている。 様々な原因で、共感力の少ない人、共感力を十分に育てることができなかった人が、世界にはたくさんいるに違いない。彼らはおそらく他者をモノと同列に置いてしまう傾向があるのだろう。他者の表情などのシグナルを読めない、他者の心を推測できない、それゆえ、自分だけの世界に閉じこもってしまうかもしれない。しかし共感力が不足しているだけでは、他者を利用したり、意志を無視したり、あるいは危害を加えるような領域に足を踏み入れることはないだろう。つまり、他者のモノ化を社会的なリスクのレベルにまで高めるような心理的要因が他にもあるに違いない。 たとえば、心理学には暗黒的心理の三要素、dark triad of personality、という概念がある。いろいろな反社会的な、攻撃的なパーソナリティから抽出されたもので、ナルシシズム、マキアベリ的発想(machiavellianism)、そして精神病質的心理(psychopathy)の三つの軸から成る。マキアベリ的発想は他者を欺き戦略的に利用するような心理、精神病質的心理は無感情の冷淡さと皮肉さに特徴がある。共感力の無さは三つのパーソナリティのどれにもある程度含まれている。共感力の欠如とこの三つのパーソナリティが重なった時、社会的に最も危険な他者のモノ化を起こす可能性がある。 暗黒的心理の三要素はこのリンク先の記事で紹介されている(注2)。自分の暗黒心理度を知りたい人は、記事に埋め込まれたサイトで計測してくれる。ちなみに、僕も測ってみたが、予想通りナルシシズムと感情の希薄さがやや目立つが、マキアベリ的発想はあまりない。社会的リスクはそれほど高くない、と信じたい。 注1 現代のようなAIの時代になって、意図的態度があるのかどうかの境界は曖昧になっている。高度のAIでなくとも、たとえばロボット掃除機などは意図的態度を示しているかのように見える。 注2 The Light Triad vs. Dark Triad of Personality: Researchers contrast two very different profiles of human nature. Scott Barry Kaufman お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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