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11時を少し過ぎた京橋のオフィス街の交差点、横断歩道の脇にリヤカーを小さくしたような手押し二輪車で弁当を売る人がランチ販売の準備を始めていた。その価格驚愕の380円だ。用事を済ませて同じ交差点を通り過ぎると、横断歩道を挟んで別の二輪車が出現していて、こちらはいまどき平均的な500円で弁当を販売していた。大通りの向こう側に目をやると、そこにも一台いる。彼らはどうやって自分の場所を決めるのだろう、早い者勝ちか、誰か(行政、自治会)の指示か、あるいは業者たちが話し合って決めたのか、でもそうすると新規参入者にどう対処するのか。人通りの多さが売り上げを左右する重要な要因だろうから、なんらかの決定方法があるはずだ。
街角のこの現象に心が向いたのは、いま読んでいる進化論についての本の中で紹介されていた今西錦司の「棲みわけ」原理/理論のことが頭にあったからだ。ランチ二輪車の四つ角の占有的使用は、人間社会のある種の棲みわけだなーと感じた。 日本霊長類学の礎を築いた生態学者の今西錦司(1902-1992年)は、1941年の「生物の世界」や1964年の「正統派進化論にたいする反逆」などの著作でダーウィン的な進化論批判を展開した、そうだ。と言われても、僕は進化論の正統派がなにかも知らないし、ましてや今西進化論については無知である。進化論というと、突然変異と自然淘汰を通じて環境により適応した生物が生き残っていき、結果的にそれが進化である、とこの程度の理解しか持っていないのだ。 となるともう少しわかりたいと思うのが、退職してブラブラしている老人の悪い癖。ダーウィン以前の進化論はあったのか、そもそもダーウィンの「種の起源」の内容はどうなの、当時(初版は1859年)の西欧社会にどう受け入れられたのか、それが20世紀のネオ・ダーウィニズムにどう変貌するのか、今西錦司はいったいダーウィンの考え方の何が気に入らなかったのか、そして今西自身の進化論は、などなどいろいろ知りたい。しかし欲張ってはいけない、このすべてを学習するのは余生を使い尽くしても不可能だ。まあせめて今西進化論について学びながら二、三回書いてみようと思う。 さて、「棲みわけ」について上で触れたことだし、今西の初期の発見から始めよう。 1930年代に加茂川のカゲロウの幼虫の観察をしていた京都大学の今西錦司(当時はまだ無給の講師だったようだ)、可児藤吉達は、やがて「棲みわけ」原理を提唱するに至った(注1)。今西グループが発見したのは、具体的にはウエノヒラタカゲロウ、ユミモンヒラタカゲロウ、エルモンヒラタカゲロウ、シロタニガワカゲロウという四種類のヒラタカゲロウの幼虫が、川の流れの速さに応じて生息域を並んで分布していた棲みわけ現象だった。 はじめは棲みわけというようなことは気がつかずに、加茂川でカゲロウの幼虫を採集していました。そしてある日、突然棲みわけということに気がついた。私が見たのは、流速に即応した棲みわけですけれども、夏になりますと、川の水をたんぼへ引くので、川の水がずっと減ってしまう。そうすると、流速ももうもとのような流速ではなくなる。水温も夏になると上がってきますわね。しかるにカゲロウの棲みわけは、春のおわりごろからちっとも変っとらぬのやね。そうするとこの配列は、流速とか水温とかいうものが、直接の原因になっているのではない。そこでそのころの環境決定論的な立場を、棄てることになるのです。(今西の発言、「ダーウィンを超えて、今西進化論講義」今西錦司+吉本隆明、朝日出版社、1978年、p.67。)近似的な種が隣接した地域に棲みわけをする現象自体は、ダーウィン自身も観察しているし、他の研究者もさまざまな生物についてそれを報告しているようだ。ダーウィンその他の通常の解釈では、流速や水温などのその場の環境に最も適応した種が(より正確には、その種に属している個体が平均的に最も適応していることで)、それぞれ棲みわけている、と考える。引用箇所の最後の文で今西自身が触れているように、これが環境決定論的理解である。今西はこの考え方を棄て自らの理論を編み出す。そこには少なくとも三つ、彼独自の視点がある。 一つは、個体中心の見方ではなく、個体より上位の種という組織に目を向けること。二つ目は、環境が決定するのではなく、環境の制約を受けながらも、種が近似種との相互関係のなかで主体的に棲みわけをする、と考える。そして三つ目、闘争ではなく種の間の共存に重点を置く。 類比を使うと分かりやすいかもしれない。種と個体の代わりに、国と個人を考えてみよう。国々が地球上のあれこれの場所を棲みわけている。個人はこの棲みわけに主体的にかかわっているのではなく、国という上位組織の時間的な進化の過程の結果、現在の場所に落ち着いている。その際、それぞれの土地の気候や肥沃度あるいは海洋資源の豊かさなどに一番適応した個人と文化を持つ国が棲みわけをした、というのがいわば環境決定的見方である。そうではなく、戦争も含めた国の主体的な行動の結果、棲みわけが決まってき、と見做すのが今西的見方か。戦争という共存からは若干外れる手段が含まれている点、そして国は政府という別の組織にコントロールされているという点で今西のモデルには当て嵌まらない。しかし、少なくとも個人の上位組織の主体的選択ということで、今西の考え方を理解する助けになると思う。 ・・・二つの近似種が棲みわけをとおして成りたたせている分布の境界線というようなものは、個体の生理的ないしは生態的な問題をこえた種の問題であり、ここで種社会という概念をもってくると、それは二つの相似た種社会がその接触をとおして、お互いに入りまじることを調整するために生じた、一種の社会的な境界線である、ということになるのである。(今西錦司 「私の進化論の生い立ち」 1974年、p.165、「進化とは何か」 講談社学術文庫、1976年に所収)今西は種を「種社会(specia)」と呼び換え、それを実体化している。種社会というひとつの概念がまるで事物として存在するもののように、さらに意識や意志を持つ生きた存在であるかのように、理論を構築していく。個体は種社会の中に、種社会は同位社会の中に、さらに生物全体社会の中に位置づけられる。 僕は仕事でデータ分析をした経験があるが、分析というのはある時点から解釈で、解釈というのはストーリー(あるいは結論)を引き出すことだ。データと解釈の関係は検証が出来なければ科学的ではなく、ある意味哲学的なものになる。今西の場合、膨大なフィールドワークがデータで、彼の種社会論はその解釈だ。彼のデータと解釈の間には、大きなギャップがあり、(種社会論に関する限りは)現在手に入るデータを使って検証することはかなり難しい。現時点では、今西の種社会論は科学的には広く受け入れられていない。 今西の種社会論は実体化された概念の独り歩きの傾向が強い。この傾向は、今西が強く影響を受けたという西田幾多郎(たとえば、彼の「場」という概念)や、その西田が影響を受けたヘーゲル(この人は多分概念の独り歩きの極にいる)の思想に典型的に表れている。今西の種社会論について、僕もストーリーを作ってみよう。西田・ヘーゲルのロマン的な観念論を下敷きに、個体よりも種、闘争よりも共存、そして種の主体性、という日本的で自分にピッタリ合った観念を組み合わせて、理論を構築した。 さて次は今西進化論(種社会論と密接に関わっているのだけれど)について書こうと思うが、千鳥足の行く先は予想できない。 注1 あるブログで引用されていた大串龍一の「日本の生態学―今西錦司とその周辺」によると、当時京都大学で今西と一緒に活動していたのは岩田久二雄、可児藤吉、森下正明、渋谷寿夫で、「棲み分け」という考え方はこのグループの討論の中で生まれたという。なかでも可児藤吉の貢献が大きかったとある。論文の発表は1939年。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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