クリームな日々

2007/12/09(日)00:17

中村先生の生き方ー2

政治経済(295)

続きです。「  2000年、アフガニスタン全土を大旱魃(かんばつ)が襲います。  以下は、中村さんの著書からの引用です。長くなりますが、状況がリアルにわかると思いますので・・・・。  2000 年5月以来、PMSのダラエヌール診療所は多忙を極めていた。ダラエヌールは、アフガン東部最大の都市・ジャララバードから北東へ30キロメートルにある 大渓谷で、約4万人が居住するといわれる。その年の春、かつて豊富な水で知られた渓谷は、異常な渇水で人々の生活を脅かした。  渓谷の川の源流 は、「ケシュマンド山系」と呼ばれるヒンズークッシュ山脈の支脈で、最高峰はクンド山(標高4300メートル)、いつもなら万年雪を戴き、春先に激しい雪 解け水が押し寄せる。水は年間を通じて途切れなく流れ、農耕を支え、多くの人口を擁してきた。しかし、この年は雨季の冬に降雨・降雪がほとんど見られず、 主食である冬小麦の収穫は大打撃を受けた。特に渓谷中流域のカライシャヒ村、下流域のアムラ村、ソリジ村、ブディアライ村は惨憺たる状態となった。   緑の広大な田畑が土漠の原野に帰し、木々が立ち枯れ始めた。農民たちは一斉に村を退避し始め、ブディアライ村では、二軒を残して無人化した。診療所で多 かったのは、赤痢などの下痢症で、不幸にして救命できぬことが稀ではなかった。時には数日かけて幼い児を胸に抱きしめてやってくる若い母親たちの姿があっ た。  大旱魃である。同年6月、WHO(世界保健機構)の発表は私たちを震撼させた。  「ユーラシア大陸中央部に進行する未曾有の大旱魃 は、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド北部、中国など広範囲に及び、被災者は7000万人と見積もられる。最も激烈な被害を受けたのは アフガニスタンで、1200万人が被災し、飢餓線上の者400万人、餓死線上の者100万人と推測される(WHO・2000年5月)」  アフガニ スタンを襲った大旱魃は、診療所付近だけではなかったのだ。100万人が飢餓線上という数字は誇張ではないと思った。実際、診療所付近で落命する患者たち は、ほとんどが小児であった。栄養失調で弱っているところに汚水を口にし、赤痢にかかる。健康なら簡単に死ぬことはないが、背景に食糧不足と脱水があると 致命的である。子どもだけではない。多くの病気は十分な食糧と清潔な飲み水さえあれば罹らぬものであった。  流民化した村人たちが続々とジャララバードやペシャワールに難を逃れ、修羅場を現出した。2000年7月、ダラエヌール診療所は、残った村人を集め、飲料水源確保に全力が注がれた。これが我々の「水資源確保事業」の発端であった。  その後の展開は、「激動」と呼ぶにふさわしい。大混乱の中にあっても、私たちの活動は休みなく継続された。  下の写真は、当時のダラエヌール診療所のそばを写したものだそうです。  ちなみに、中村さんたちの水資源確保の努力で、その後、これと同じ場所がどうなったかというと、下の写真です。  今、アフガニスタンに求められているのは個別の医療活動ではない。医療以前の問題。「百の診療所より一つの井戸」。住民を救う道は水の確保だ、と思い定めた中村さんは、白衣を脱ぎ、井戸堀をはじめることになります。  普通の井戸、アフガン式の横堀で地下水を掘り出すカレーズ(中村さんは、「カレーズという名前なんですが、これがしばしば枯れるんですヨ」と冗談を言って聴衆を笑わせました)、そして、水路から巨大な用水路にまで事業は発展していきます。  その結果、今年8月時点で、井戸を1500本掘り、農業用水路は第一期13キロメートルを竣工、既に千数百万町歩を潤し、さらに数千町歩の灌漑が目前に迫っていると報告されています。  そんな時、9・11が起こりました。  2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易ビルにアルカイダにハイジャックされた旅客機が突っ込みました。  その直後に中村さんが書いた記録が著書に掲載されていました。これも長くなりますが、当時のリアルな状況と中村さんの思いを理解するうえで大切だと思ったので、引用することにします。   大規模な軍事報復を予想して、車両・機材を安全地帯と思える場所に移動させ、薬剤はPMS診療所があるダラエヌール渓谷に移し、数ヶ月の篭城に耐えるよう に指示した。5ヶ所に診療所を持つカーブルには伝令を送り、ペシャワールに家族のある職員はペシャワールに戻らせ、カーブル市内に家族のある者はその意志 に委ねた。  旱魃対策の要であった水資源確保の事務所はジャララバードに置かれており、若い日本人ワーカーたちもここに寝起きしていた。「PMS・水対策事務所」の職員74名は、金曜日の休みであったにもかかわらず、同日午前7時に異例の招集をかけられ終結(原文のまま)していた。   意外に町は平静であった。黙々と日々の営みがおこなわれていたが、それは事情を知らないからではない。相変わらずBBCはパシュットゥ語放送で米国の動き を伝えていたし、職員の誰もが日本人大衆よりは驚くほど正確に事態を判断していた。実際、ジャララバードには3年前にも米国の巡航ミサイル攻撃が集中し た。今度は更に大規模な空爆が行われるだろうとは百も承知の上のことである。  粛々と何かに備えるように--といっても、「米国憎し」と戦意をたぎらすわけでもなく、ただひたすらその日を生き、後は神に委ねると述べるのが正確であろう。緊迫した決意であっても、そこには騒々しい主張や狼狽はいささかも感じられなかった。   私は、集まった職員たちに手短に事情を説明した。「日本人ワーカーを帰す言い訳を述べ(ポチ注=大使館から撤退を要求されていた。中村さんは、抵抗はした ものの大使館の立場も汲み「一時撤退」ということで引き上げることを受け入れた)、かつ士気を保つように」との水源事業担当の蓮岡の求めだったが、より感 傷的になっていたのはおそらく私の方だったろう。  「諸君、この一年、君たちの協力で、20数万名の人々が村を捨てず助かり、命をつなぎえたこと を感謝します。すでにお聞きのように、米国による報復で、この町も危険にさらされています。しかし、私たちは帰ってきます。PMSが諸君を見捨てることは ないでしょう。死を恐れてはなりません。しかし、私たちの死は他の人々のために意味を持つべきです。緊急時が去ったあかつきには、また共に汗を流して働き ましょう。この一週間は休暇とし、家族退避の備えをしてください。9月23日に作業を再開します。プロジェクトに絶対変更はありません」  長老格のタラフダールが立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。  「皆さん、世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益のみを図ることで心がくもった人です。PMSはいずれか、お分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人を永久に忘れません」  これは既に決別の辞であった。   家族をアフガン内に抱える者は、誰一人ペシャワールに逃れようとしなかった。その粛然たる落ち着いた笑顔に、内心忸怩たるものを感じぜずにはおれなかっ た。再会する可能性がないとお互いに知りつつ敢てカーブルへと旅立つ一人の医師を、「神のご加護を」と抱擁して見送った。  帰国してか ら、日本中が沸き返る「米国対タリバーン」という対決の構図が、ひどく作為的な気がした。淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった。昼夜を問わず テレビが未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。湧き出した評 論家がアフガン情勢を語る。これが芝居でなければ、みな何かにとり憑かれているように思えた。私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ。   全ては砂漠の彼方にゆらめく蜃気楼の如く、真実とは遠い出来事である。それが無性に悲しかった。アフガニスタン! 茶褐色の動かぬ大地、労苦を共に水を得 て喜び合った村人、井戸掘りを手伝うタリバーン兵士たちの人懐っこい顔、憂いをたたえて逝った仏像--尽きぬ回顧の中で確かなのは、漠漠たる水なし地獄に もかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」を見せてくれたことである。「自由と民主主義」は今、テロ報復で大規模な殺戮を展開しようとしている。 おそらく累々たる罪なき人々の屍の山を見たとき、夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、報復者その人であろう。瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、果た して何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。                                  (2001年9月22日)  9月以降、ペシャワールに、各国のNGOなどの団体が集まってきます。「空爆が始まればペシャワールに難民が逃れてくる。その支援が必要だ」というのが、その理由でした。  講演では一言も触れられませんでしたが、著書の中で中村さんはこれらの団体に対して厳しい批判をおこなっています。長くなるのでここでは割愛します。   中村さんたちPMSは、これらの団体がまったく的外れのことをしていることがわかっていました。なぜなら、多少裕福な市民は、この時点では既にペシャワー ルに逃れており、カーブルに残っているのは、逃れることのできない飢餓避難民であること、空爆が始まったとしても彼らは逃れることは不可能であるからで す。  中村さんは、著書の中で、こう叫んでおられます。  「本当に緊急に支援が必要なのは今!アフガン国内なのだ。米国の空爆を前提として国外で避難民を待つよりは、避難民を出さない努力、即ち暴力的な報復爆撃をやめる努力が必要だった」  と。  そして、中村さんという人間のすさまじさは、叫ぶだけではなかったことです。  こうしたなかでも、井戸掘りは部分的には続行され、3つのアフガン東部の診療所、カーブルの5つの診療所は運営を続けられていたそうです。  そして、9月下旬、中村さんは決断し、指示を出します。  「残ったカネをはたいて食糧を買い、空爆前にカーブルで配給せよ。医療関係、水関係を問わず、PMS総力をあげて実行されたし」 」つづく  

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