灰色の記憶 【短編ハードボイルド】
「並一人前と瓶ビール」終電40分前に、わたしは駅近くのバラックのような寿司屋で遅い晩飯を摂った。「今日も遅いんだね」「あぁ、チョンガーの俺にはここは便利でね」「京急の立体工事が始まっちゃうと立ち退きなんでさぁ」俯き加減に寿司を握りながらオヤジはわたしに呟いた。駅舎の一部は解体工事に入っている。176cmのわたしでも、頭が天井に当たりそうな低い屋根、黄ばんだ蛍光灯が2つだけの暗いカウンター当然、テーブル席を置くほど広くない。カウンターも5席だけである。その上その1つには、いつもクシャクシャになった新聞が無造作に置いてある。アルマイトのヤニのついた曲がった灰皿が、鈍い光を放つ。2トン車が通るだけでも、震え出す入口。AMラジオから寄席の年老いた笑いが聞こえる。場末と言わずに、どう表現すればいいのだろう。似たような建物を見た記憶があった。炭鉱跡のホルモン屋である。猥雑な黄色の看板がこことの相違点であるが、場末は変わりない。「お待ちどう」地元の寿司屋の1/3しか乗ってないネタ。新鮮さなど売りにはしてない。ただ腹を壊さないのは、オヤジの見立てなのだろう。ビールを半分飲んだ頃に、萎びた寿司が現れる。大きく立派な会社と見られてはいる。そう見せるためにも、わたしはなけなしの給料でブランドスーツに身を固めている。しかし極度の安月給である。残業が立て込むと、こんな小汚い寿司屋でも自分に戻ることが出来るささやかな時間となる。「お愛想」「1050円ね」わたしは狭い歩道に足を取られながら駅に向かった。ヨレヨレの人生であった。それから18年久しぶりにその街に立ってみた。街は変わろうともがいていた。どこにでもある居酒屋チェーンが軒を連ね、パチンコ屋に併設されたサウナのネオン、漫画喫茶など目に付いた。しかしあの小汚い寿司屋の残骸はどこにもないのだが、虚ろな空気は変わってない。灰色の20後半だった。二度と来ることはないだろう。過ぎ去った日々の確認作業だったようだ。