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テーマ:映画館で観た映画(8992)
カテゴリ:邦画(か行・さ行)
監督 : 若松孝二 出演 : 寺島しのぶ 、 大西信満 、 吉澤健 、 粕谷佳五 、 増田恵美 、 河原さぶ 、 石川真希 、 飯島大介 、 安部魔凛碧 、 寺田万里子 、 柴やすよ 鑑賞劇場 : シネマ・ジャック&ベティ 公式サイトはこちら。 <Story> 一銭五厘の赤紙1枚で召集される男たち。 シゲ子(寺島しのぶ)の夫・久蔵(大西信満)も盛大に見送られ、勇ましく戦場へと出征していった。 しかしシゲ子の元に帰ってきた久蔵は、顔面が焼けただれ、四肢を失った無残な姿であった。 村中から奇異の眼を向けられながらも、多くの勲章を胸に、“生ける軍神”と祀り上げられる久蔵。 四肢を失っても衰えることの無い久蔵の旺盛な食欲と性欲に、シゲ子は戸惑いつつも軍神の妻として自らを奮い立たせ、久蔵に尽くしていく。 四肢を失い、言葉を失ってもなお、自らを讃えた新聞記事や、勲章を誇りにしている久蔵の姿に、やがてシゲ子は空虚なものを感じ始める。 敗戦が色濃くなっていく中、久蔵の脳裏に忘れかけていた戦場での風景が蘇り始め、久蔵の中で何かが崩れ始めていく。 そして、久蔵とシゲ子、それぞれに敗戦の日が訪れる……。 ![]() キャタピラー - goo 映画 <感想> 2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品、寺島しのぶが最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した作品。 先週、新宿で見ようと思ってたんですが都合悪くなり、今週に変更。 この日は横浜近辺が都合よかったんで、ジャクベにしました。 前から聞いてはいたんですが、どうしてもシネコンに足が向いてしまって、 なかなか行く機会がなかったジャック&ベティ。 初めて行って来ました。 写真は撮ってこなかったんだけど、行ってみると (思った通りなんですが)あまり周りにはお行儀がよろしくないお店もちらほら。。。 イセザキモールの終点近くだからいろいろあるよね。 駅で言うと地下鉄の阪東橋か、京急の黄金町。 クルマだと首都高の阪東橋出口からすぐですね。 外観はやっぱりレトロな感じで、でもエスカレーターがついていて、これは高齢者への配慮でしょうか。 昔の建物なのでかなり階段の段差があるし。 内部もレトロではありますが、きちんと手入れされている雰囲気があります。 整理番号順に入場ですが、手際がよくて、慣れているという印象でした。 スクリーンは2つあり、名画座のシネマ・ジャックと単館系ロードショー館のシネマ・ベティという住み分け。 この日のキャタピラーはベティでした。 戦争映画をレトロな映画館で観る。 何だかピッタリのような気もします。 上映前に支配人さん(?)からご挨拶がありました。 若松監督は、前作の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を上映した館に、今回の『キャタピラー』を優先的に上映してくれないかと、自らがお願いされたそうです。 そんなエピソードも伺えるところが、名画座のいいところなのかもしれません。 さて映画です。 戦争によって四肢を失った状態で帰還した久蔵。 夫は「生ける軍神さま」と崇め奉られるが、その一切の世話は妻であるシゲ子にのしかかってくる。 ただひたすら、人間の本能としての欲に生きる夫、そしてそれを受け入れるしかない自分。 しかしながらそれが世間では「妻の鏡」であると評される・・・ というものです。 戦争中はこういうことが当たり前に思われていたのだろうな、という描写が いくつもいくつもありました。 例えば、銃後の婦人たちの思想統制。 太平洋戦争に少しでも疑念を抱くことのないようなスローガンは、銃後の人間たちにも徹底されていて監視されることですね。 そこからはみ出すことは許されない。 そして戦う方も自分の尊厳などは認められない。 戦争によって非情な姿にさせられてもそれを嘆くことも許されない。 それどころか、いつの間にか自分が「神」として祀られることへの理不尽なこと。 だが、理不尽なことなのに、自分たちが一段高い地位にあることに対して感じる優越感もあったりする。 皆が拝んでいるのは、金鵄勲章だけなのかもしれないのに。 本音と建前、の世界なんだろうと思いました。 本音ではああいう風になったらもう終わりだ、あんなのとだけは暮らしたくない、そう思ったとしても、それを拒否することを許さない世間があり、またその場所からは逃れられない現実が重く存在する。 食欲と性欲だけに終始する夫に嫌気を覚えつつも、外に出て褒められると溜飲が下がったかのような錯覚にとらわれる。 そして家の中では鬱屈した感情を溜めていくという循環です。 最後の記録集、メッセージなどから読み取れる、「忘れてはいけない」というテーマがあるのですが、 それとは別に、この極限の状況に陥った夫婦の在り方を考えさせられる作品でもありました。 シゲ子と久蔵との間には、もともと愛情はあまりなかったように推察されます。 昭和初期、戦前では、暴力夫がいてもそれに立ち向かったりすることは今ほどはなかったようにも思いますので。 許容範囲として妻は受け入れざるを得なかったのではないでしょうか。 暴力夫でも、夫は夫、反抗することは妻として失格とされた時代のように思います。 そんな夫婦の中に真の愛情はあったのか。 とても疑問です。 出征前は当たり前のように暴力をふるっていた久蔵は、不自由な身体で帰還した後は枯れることのない性欲をシゲ子にぶつけ、異様な食欲でこれまたシゲ子を困らせる。 それはあたかもシゲ子を束縛しているようにも見える。 不自由な身体の自分が、「軍神の面倒を見ることが妻の鏡」という世間の概念を利用してシゲ子を縛り、彼女より優位に立とうとしているように見えて仕方がないのである。 シゲ子は、そんな夫に仕えつつも、それがどんな心境でやっているのかが読めてこない。 ただ言えることは純粋な、単純な心持だけではないということ。 最初は無我夢中で、そして次第にあきらめと嫌悪、苛立ちが混ざってくる。 それなのに時折夫に共感するような仕草をしているのが不思議。 彼女にとっては、何一つ自由にならない時間のはずなのに、それでも夫と息が合う場面があるのも不思議。 これは夫婦ならではの複雑さかもしれない。 それでも、自分に押しつけられている役割は過酷であり、久蔵を連れ出して周囲に敬われることで鬱憤を晴らしているのも屈折した心である。 当時の世相、戦時下とという状況、そして久蔵の容体などの条件があって、 この、一筋縄ではいかない話が生まれている。 ただし、後半に流れてくる記録映画の部分など、「忘れない」というのはわかるのだけど、 それだけを語るには、夫婦の描写があまりにも濃すぎる。 夫婦のことなのか、それとも反戦なのか。 どっちもあって相乗効果というのもありですが、 どちらかに重点を置いてもよかったように思う。 できれば、久蔵のトラウマの部分や、彼の気持などもあるとよかったのではないだろうか。 「極限の状況でも、欲に生きるのが人間である」という生々しさも十分に出ていたので、そちらに重きを置いた方が、スッキリとまとまったような気もしますが、どうでしょうか。 ************************************ 今日の評価 : ★★★ 3/5点 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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