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自転車18年にっぽん旅日記

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2005年11月28日
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カテゴリ:アウトドア・釣
 (続き)
 ○02年9月4日(水)晴 椎葉~飯干峠~湯山峠~市房~多良木~人吉(旅館・泊)84km

 昨夜の取材クルーのメンバーと別れ、昭和30年完成の日本初のアーチ式で知られる椎葉ダム沿いに南下する。

 ダムを通過すると道はぐんと険しく狭くなる。

 無人の椎茸畑
 道傍のあちこちに黒いネットの帯が続く。中を覗くと、丸々と育った椎茸がホダ木にびっしりと付いている。周りは誰もいない山の中だ。

 わずかな平地をいとおしむかのように稲が育てられている。

 椎葉の人々の気質がうかがえてほのぼのとした気持ちで往き過ぎる。

 黒木兄弟刑殺の地
 小さな谷間の集落で、自然石の碑と「掲札」を見かける。

 「黒木六左衛門 田大六兄弟殉難顕彰の碑」とある。

 「掲札」には、「この地において享保16年(1731)7月19日、人吉からの藩遣使役人により名主黒木六左衛門
田大六兄弟が仕置きされ、村人の嘆願により遺体の引渡しを受け、懇ろに弔い碑を建立。刑殺の理由は、椎葉村民長年の苦境の救済策として、藩林の伐採と搬出の許可を村人連署で願い出たことが、幕府法度の『強訴』に触れたと裁断されたことにある、、」と記されていた。

 きれいに清掃された碑には香華が供され、270年を過ぎた今日もなお、無念の黒木兄弟への、村人の追慕の気持ちが深いことを知らされた。

 西郷軍と飯干峠
 道は九十九折れの登山道並みの険路が続く。

 「西南戦争」に敗れた西郷軍の一隊は、追討の政府軍を避けて、椎葉から飯干峠を経て人吉のルートをたどったと伝えられている。

 草鞋を失った兵は、道端に捨てられた「馬草鞋」を奪い合い、山人の狭い家は寒さを避ける兵ですし詰め状態になったともいう。

 飯干峠の頂上で、はるか人吉・鹿児島方面を望み、往時の西郷軍をしばし偲んだ。

 人吉へ
 湯山峠を越えると「ご褒美の下り坂」、球磨川沿いに一房~多良木と駆け下って、午後4時ジャストJR人吉駅に着いた。

 侍女を従えた殿様のからくり時計が賑やかに4時を告げていた。

 観光案内所で紹介の宿へ向かうポダリングの途中、街中に掘りめぐらされたゆたかな水路にそよぐ水藻と鯉に見とれる。戦国期から700年の相良の殿様代々の遺産で、「水路を汚した者には厳しい仕置き」があったという 刑殺の名主慕いて今になお香華絶やさぬ山里の人


 飯干の峠に立ちて西郷の敗軍憶い人吉望む

 滔々の球磨の流れと競いつつ九州縦断人吉へ


 (続く)





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最終更新日  2005年11月28日 08時43分46秒
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