『朝鮮茶碗と私』 森田統著
お茶を始めてから、美味しいと一服をいただける茶碗が欲しいと思うようになった。あまり派手な茶碗は趣味ではない。どちらかというと、侘び茶に合うような、見た目は薄汚い器がいい。お茶は緑。深い緑…そのお茶を眺めてからいただくと、深淵を覗き込むような感覚になる。そうすると、やはり綺麗でピカピカの茶碗(それはそれでいいのだが)より、土味の強い茶碗の方が自分の感覚ではしっくりとくる。そういうことを色々模索している内に伊羅保の茶碗にぶち当たった。実際はYahooオークションでいい茶碗ないかなぁと物色してたんですが…(笑)それで、『オッ、これは』と思った茶碗が『朝鮮茶碗と私』の森田統さんの伊羅保茶碗。字を十雨というそうです。で、茶碗には入札してみたのだが、落札額はもの凄い金額になり、自分の懐事情では手がでませんでした。確か落札額は9万…市場の適正価格は12~13万円くらいみたいです。そのオークションで森田十雨氏の著書の紹介があったので、早速、読んでみることにしました。こちらも中古でも結構値がはりました…さて、『朝鮮茶碗と私』ですが、これは陶芸でプロを目指す人は必ず読んで欲しい一冊です。陶芸家になるためにはどんな苦労があるか、またどんな喜びがあるのかを、熱く語ってくれます。逆に陶芸家を志すのを尻込みしてしまうかもしれないです。それくらい陶芸を極めるのは厳しいってことですね。ただ参考になることも多く、何が朝鮮茶碗の見どころで、森田十雨はどのようにして茶碗を作り出したかの仔細を記録してくれてます。本物の朝鮮茶碗を求め、伊羅保、ととや、柿の蔕の茶碗を全国中を見て回ったり、何百の名碗を拝見し、覚書を作ったり。この貪欲さ…必要ですね。それから荒目の土で轆轤を引いて、指先の皮が擦り切れて出血したエピソードや、茶碗がちょうど炎の中で程よく崩れる工夫なんて、森田氏の何十年の研鑽を惜しみなく披露しています。なんでそんなことができるのか…それは単に森田十雨の自信の表れだと思います。小手先の技術を真似しても本物にはならない、やれるものならやってみなと、他の陶芸家への挑戦状なんでしょうね。そして森田十雨は彼自身まだまだ本物の朝鮮茶碗は作れていない、だけど自分はそれを超える茶碗を世に残したいと高らかに宣言する。凄いなぁ…苦労の裏打ちがあるから、そんなこといえる。作品そのものが森田十雨になっているんだと思います。作品に自分が滲みでるってのは、陶芸をやっているものとしては、まぁ夢ですね。森田十雨の本物の茶碗は手に取ってみてませんが…いつか見てみたいし、お茶を一服いただいてみたいですね。残念なのは、1983年に『朝鮮茶碗と私』を出版し、集大成の作陶に挑むと宣言してから3年後に、森田十雨は亡くなっている。まだ63歳…陶芸家としてはこれからが活躍する時期であった。本人も相当に無念であったろうと思う。彼の意志は実現したのか…これ以外の書籍を知らないので、どうなったか答えは藪の中である。さて森田十雨のような高きを望むのは腰が引けるとして、陶芸の巨人に強い重力を残していただいた、その雰囲気を感じながら、作陶できるのは大変幸せで、且、安心である。すべての方にではないですが、一読をお薦めします。☆☆☆、星3つ!